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『握手』 中編

Pixiv
それから数日、僕は大学の新入生としての日々を緊張気味に送りながら、ずっと考えていた。
キャンパスの妖精などというふざけたあだ名で呼ばれる、あの女性のことを。その彼女が見ているもののことを。
僕は今まで、周りの人々が気づかない、この世のものではないものをたくさん見てきた。そして嫌というほど叩き込まれてきたのだ。そういうものを見るということを、僕らの社会は受け入れてくれないという現実を。だから、見ても、見ない振りをしてきたし、そういうものに自分から近づいていくこともしなかった。
『それでも、どうか目を閉じないで』
頭の中で繰り返されるその呪いのような言葉に首を振りながら。
それなのに。
見えていないのは、僕のほうだった。
『妖精』が見ていたものは、僕には見えていなかった。なんだろう、この感じ。僕に見えないものを見ているという彼女を、気持ちの悪い異物として、ただ避けていくということは、僕を受け入れてくれなかった世界と同じではないか。
《妖精を見るには、妖精の目がいる》
昔読んだSF小説の一節が頭に浮かんだ。
妖精の目……。
僕の目は、いつかそんな目になるのだろうか。

僕は黒いものを探して歩いた。生活圏である、大学生協から一般教育棟、学部棟、図書館、そしてサークル棟の間だけではなく、これまで足を踏み入れなかった他学部の敷地にまで捜索の範囲を広げた。
いる。確かにいる。
視界の端に一瞬入ったかと思うと、次の瞬間にはもう消え去ってしまうものが。急に振り向いた僕に、驚いた顔を見せて、気持ち悪そうに眉をひそめる学生たち。
「どうかした?」と心配そうに話しかけてくれる人もいたけれど、黒いものを見なかったか、と訊ねると、ああそっち系のやつか、という顔をして、「さあねえ」とそそくさと去っていく。
そんなことを様々な場所で繰り返した。
僕なりに考えたことがある。あの黒いものは、見よう、見ようとするその気持ちを、見透かしているようだ。見ようとすると去っていく。そんなものをどうやって見ればいいのか。
……見ない。見ないで、近づく。目を閉じたままで。そのためには、どうしたらいい。
気配だ。気配を感じるしかない。目に頼らず。
僕は目を閉じて学内を歩いた。
10数分後、10人目の人とぶつかって平謝りしたあとで僕は、昼間は無理だと悟った。賢明ではあったが、やや遅きに逸した感があった。
その夜だ。
春とはいえ、夜はまだ肌寒い。ジャンパーを着てくればよかったと少し後悔しながら、僕は真っ暗なキャンパスのなかを歩いた。
ところどころに白色の光を放つ街灯があったけれど、深夜の大学構内はいつもの華やいだ雰囲気とは違う。自然と息をひそめてしまうような、静謐な感じがした。
学部棟のいくつかの窓には明かりが灯っていて、学生なのか、教員なのかはわからないけれど、こんな時間にも研究を続けているようだった。
大学生協の前の通りに出た。昼間は学生の往来のメッカで、立ち止まっているだけで、足を踏まれたり、ぶつかったりしてしまう場所だ。
今はだれもいない。目を閉じてみた。そのまま歩いてみる。
さっきまであったはずの道が、記憶のなかでどろどろと溶けて、自分がどこにいるのかわからなくなる。
目を開けた。5メートルも歩いていなかった。
これは怖いな。心霊的な怖さというというより、心理的な怖さだ。
もう一度目を閉じた。
静かだ。
自分の呼吸を感じる。
闇のなかに、別の呼吸を探す。
呼吸でなくてもいい。なにかがそこにいるという、痕跡。気配を。
しばらくそうしていて気づいた。
どこかに、どこかに、と思いながら、自分は前方にしか意識を向けていないことに。
なぜだろう。
ぐっと深く瞼を閉じる。だが、そうすればそうするほど、『面』を感じた。
自分の前にある大きなスクリーンが幕を閉じている感じ……。
眼球だ。
目を閉じていても、眼球の形状に意識が限定されてしまっている。闇は、全方位に広がっているはずなのに、前方の闇にしか意識が向かない。
この発見を面白く感じると同時に、やっかいさもわかってしまった。
闇は、左右にも、頭上にも、後方にも伸びている。
そうイメージしようとしても、なかなかうまくいかない。前だ。前だけ。目の前の景色を、塗りつぶしているだけだ。
期せずして、瞑想の訓練となってしまった。
目を閉じている自分自身を無にするイメージ。闇そのものをとらえるイメージ。
時間はたっぷりあった。だれにもぶつかることもなく。
どれほど経っただろうか。
なにかが、僕のそばを横切った。
黒いなにかが。
遠い。近づこうとして、足を動かした瞬間、その方向が斜め後ろであることに気づいた。そして同時に、自分が目を閉じたままだったことに。
あ。
そう思った瞬間、闇は『面』になった。戻ってしまった。
目を開けて斜め後ろを見たが、生協の外壁があるだけだった。
(くそっ)
悪態をついたが、収穫も感じていた。完全な闇のなかで、「黒いなにか」を幻視したのだ。見られないはずのものを。
もう一度だ。
僕は繰り返した。目を閉じて、闇を『面』から『球』にし、『球』から『穴』にした。
場所を変えて何度も何度もその瞑想を繰り返したが、黒いものの気配を感じることはできなかった。
頭が疲れきってしまい、最後には微かな夜風を頬に感じながら、ただ歩いた。歩いた。
なにも考えず歩いていると、光るものが風に乗って流れてくるのを見た。
なんだろうと思って手を伸ばすと、それは手に触れることもなく、瞬くように消えてしまった。
幻覚か。疲れきった頭が、そんなものを見せているのか。
空を掻いた指先を見つめ、僕は思い出していた。いつか見た、列をなして歩く、死者の群を。
その列の先頭を行く人の、頬からこぼれる光を。
僕はハッとして周囲を見回した。
彼女がいる。
このどこかに。
目の前にグラウンドの高いフェンスの黒い影が見えた。歩き回っているあいだにサークル棟の近くまで来ていたらしい。
あそこにいるのか。
そんな気がして、街灯の明かりを頼りに、サークル棟への直線道に入った。
暗い。真っ暗だ。道中にあるはずの照明柱が点いていなかった。故障なのか。僕は足元に気をつけながら、そちらへ向かって歩く。
空は曇っている。月明かりもほとんど漏れていない。その空のなかに、明かりのない柱の先がうっすらと見えた。
いる。人影が。
柱の上に腰掛けて、どこか遠くを見ている。
僕はそっと柱の下まで近づいて、声をかけようかどうしようかと、迷った。こんな夜中に人が来るなんて思ってもいないだろう。驚かせてしまい、足が滑って落下するようなことになったら大変だ。そう思って。
僕は息を殺して、このまえ彼女が見ていた方向に目をやった。教育学部の建物が黒々とした影となっている。
なにを見ていたのだろう。
そう思った瞬間だった。
背筋を、ゾクリとしたものが走った。
繰り返した瞑想の影響なのか、いつもより鋭敏になっていた僕の感覚が、頭上の異様な気配をとらえていた。
あの人じゃない。
思わず柱から離れて、後ずさった。
柱の上の人影のようなものは動いていなかった。暗すぎてよく見えない。それでも、わかるのだ。あれは……
人じゃない。
ドキンドキンと打つ鼓動を悟られはしないか、という強迫観念に囚われながら、僕はゆっくりと後退を続けた。
柱が遠ざかっていく。暗闇のなかの後ずさりは怖い。躓きそうで。それでも、目を切れなかった。闇のなかに完全に照明柱が溶けてしまってから、僕は振り向いて足早にその場を去った。
歩きながら、自分の右目を触る。
怖い。怖い。
その素直な感情が渦巻いている。
こんな怖いものを見ないといけないのか。
僕はだれにぶつけていいのかわからない怒りが、湧いてくるのを感じていた。
教育学部の学部棟のほうを睨む。あっちだ。直感と、ほんの少しの推理で、僕は彼女の居場所を予測した。
彼女のうしろで列をなしていた死者の群を思い出す。夜の彼女は、死者にとって特別な存在なのだ、という想像。さっきのなにか得体の知れないものが、柱の上で見ていたものはなにか。
その先に彼女がいるのではないか。そう思ったのだ。
予感は、正しかった。
なじみのない教育学部のエリアの建物の下で、僕は頭上を見上げた。淡い幻のような光の粒子が微かに見える。
屋上だ。
無人の建物をぐるりと回り、玄関らしきところを見つけたが、分厚いガラス戸に鍵がかかっていて入れなかった。しかし、彼女はこのなかにいる。
僕は入学して早々に教えられた、自分の学部の学生向け侵入路のことを思い浮かべ、必ずそんな入り口があるはずだ、と思った。
建物の裏側に回り、講義室や研究室の窓ガラスをひとつひとつ揺さぶっていく。
あった。
小さな窓ガラスが1つ、施錠されていなかった。外から飛びついて、体をむりやりなかにねじ込んでいく。バランスを崩して腰からドサリと落ちた。
真っ暗だが、机と椅子が並んでいるのはわかった。講義室だろうか。起き上がって、手探りで進む。出入り口のドアは鍵が掛かっていなかった。
遠くに見える、緑色の非常口を示す明かりに、少しほっとさせられる。明かりがないのは本当に心細い。廊下の端に階段があった。手すりに掴まって静かに登っていく。
4階まで来たとき、階段の先にドアがあるのに気づいた。屋上だ。
そっとノブを握った。回る。鍵が掛かっていない。
ゆっくりと開けて、外に出た。
「よう」
彼女が、『妖精』が、屋上の端に腰掛けたままこちらを振り返った。
驚いた様子はない。僕に気づいていたのか。
「なにをしてるんですか」
「んー? 高鬼(たかおに)」
その口からでた子どもじみた遊びに、拍子抜けした。
なんだそれは。
このあいだと同じような格好をしているが、今日はタバコを咥えていなかった。
「春になるとな、ざわざわするんだよ。大学が。お前、新入生だろ」
「そうです」
「うちの大学、新入生だけで2千人以上いるからな。それだけの人が動くと、いろんなものが動くんだ」
彼女は、いろんな、という言葉を強調して言った。
「お前の言う、『黒いもの』もその1つだ。害のないものならいいけど、放っておくと危ないものもある」
なにを言っているんだ、この人は。
深夜の無人の校舎の屋上で、たった2人。現実感のない空間だった。
「高鬼って遊び、知らないか。鬼よりも高いところにいる人は、捕まえることができないってやつ」
このあいだよりも機嫌が良さそうだ。口調が明らかに滑らかだった。
「今日はしつこいしつこい」
笑ってそういう彼女に、僕はサークル棟の前で今体験したことを話した。柱の上にいたなにかのことを。高鬼、という言葉に反応して。
「ああ、雑魚は逃げるだろうな。そうやって。あれは洒落にならないから。私もこないだは危なかった。逃げ場がなくてな」
こないだ? 先日、彼女が柱の上に腰掛けていたときのことか。
『見えてないな』
彼女に言われた、辛らつな言葉が脳裏をよぎる。
彼女が逃げるような、なにか恐ろしいものがあの場所にうごめいていたというのか。
日常に、どろりとした膜がかかっているイメージ。そのなかを、人々が笑いながら歩いている。その膜が見えるものだけが、体を捕らえられてあがいている。
『それでも、目を閉じないで』
嫌だ。
なぜ自分だけがそんな目に遭わないといけないんだ。
やり場のない憤りが、言葉に乗った。
「そんな、そうやって、逃げて、なにが楽しいんですか」
笑っている彼女に、理不尽な怒りをぶつけた。
けれど彼女は驚きもせず、答えた。
「遊びだから、楽しいんだ」
高鬼なんて、真剣にやったことあるか?
彼女は屋上の縁で立ち上がって言った。
「鬼に捕まったらどうなると思う? 次はだれだれちゃんのオニーってやつだ。鬼がクラスのともだちだったら、ともだちになるだけだ。じゃあ、鬼がこの世ならざるものだったなら、捕ったらなんになる?」
彼女の言葉には、隠しきれない歓喜が込められていた。
「いいか、そんな遊びのなかにこそ……」
続けようとした言葉が止まった。
背後で、ドアが開くような金属の擦れる音がした。振り向くと、だれかがそこに立っていた。
「お前…… つけられたな」
彼女が切羽詰ったような口調で僕をなじった。
屋上のドアから出てきたそのだれかは、ぐわんぐわんと体が大きくなったり、小さくなったりしていた。
人じゃないことはわかった。そして、僕がこれまでに見てきたような、街角でひっそりと立っているだけの幽霊などとはまったく違う、寒気のするような悪意で充満した存在であることも。
僕が招き入れてしまった? 入ったときの窓ガラスは……開けっ放しだった気がする。
膝がガクガクする。
「遊びは終わり」
彼女がそう言って、屋上の手すりの縁に置いてあったなにかに手を伸ばそうとした瞬間、ドアのところにいたそいつの体が急に伸びた。一瞬だった。
「あ」
彼女の手からなにかを奪ったそいつが、屋上の外で宙に浮いていた。
「返せ」
彼女が叫ぶ。
そいつは、頭のあたりで人間の顔が風船のように膨らんだり、縮んだりしている。体は体で、手は手で、足は足で、別個にぐわんぐわんと揺れている。
そして彼女から奪った仮面のようなものを手にして、しげしげと眺めている。
「返せ」
もう一度叫んだが、まったく反応はない。そいつが浮かんでいる場所には、屋上から身を乗り出しても手が届きそうになかった。その向こうは、4階建ての高さの闇だ。
今まで不思議なものを散々見てきた僕にも、信じられないような光景だった。なにより、いつも『個人的な体験』だったはずの、そういう存在を、別の人と一緒に見ている、という不可解さに、頭痛がするようだった。
「うしろを向いて、目をつぶってろ」
「え?」
「いいから、目をつぶってろ」
彼女が、屋上の外に浮かぶそいつを凝視しながら言った。
「はやく」
有無を言わせぬ口調に、僕は急いでうしろを向いた。そのまま逃げ出してしまいたい気持ちになったが、なんとかこらえて目を閉じた。
目を閉じたが……。
なにも起きなかった。風が吹いて、顔を撫でた。彼女は、なにをしている? あの、恐ろしいやつは?
思い出して生唾をのんだ。恐怖がこみ上げてきて、目をつぶっていられなくなった。
目を開けて、すぐに振り返った。
いない――
屋上にはだれもいなかった。
うそだろ。
僕は慌てて周囲を見回したが、あの恐ろしいやつの姿もなければ、彼女もいなかった。屋上には隠れる場所もない。
幻覚でも見ていたかのようだった。
化け物はともかく、彼女が、なぜ?
ドアを見た。
自分だけ逃げた?
僕は周囲を警戒しながら、ドアのほうに向かって歩き出した。
階段を降りながら、下のほうに恐る恐る声をかけてみたが、なんの反応もなかった。入ってきたときと同じように、人の気配はまったくなかった。
3階、2階、1階と様子を伺いながら降りていった。最初の講義室へ戻り、その窓から外へ出た。
いない。
彼女は消えていた。逃げたのか。僕を囮にして?
1人残された僕は、闇のなかで立ち尽くしていた。

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