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『馬霊刀』 4/4

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4 馬霊刀
 喫茶店を出たあとで、僕らは留置所に拘留中の緒方に面会を求めた。雑貨店の事件のあと病院に運ばれ、1週間ほどで退院した緒方は逮捕されて、すでに検察に送致されていた。強姦は親告罪なので、被害者の告訴がなければ訴追できないが、被害者の女性が説得に応じて訴えたそうだ。起訴まで持っていけるだろう、と不破は言っていた。
 拘留中は被疑者に基本的にだれでも面会できるが、本人が拒否した場合は無理だ。師匠は不破に、なんとか顔だけでも覗かせてくれないか、と言っていたが、思いのほか、緒方は面会に応じた。
 西署の留置所で、署員立会いのもと、緒方に会った。
 10日ほど前のことなのに、緒方はげっそりと頬がこけていた。頬の傷には、まだ痛々しくガーゼが当てられている。小さな穴のあいたガラス越しに、緒方は頭を下げた。疲れた様子だったが、目つきは穏やかだった。
「すみませんでした」
 そして、師匠に感謝の言葉を述べた。
 あのときの自分は、どうかしていた。こんなことはいけない、とわかっていてもなぜかやめられなかった。あなたにすべて暴かれて、ようやく正気に戻れた気がする。
 僕には表面をとりつくろっただけの、つまらない言い訳に聞こえたが、師匠は緒方の目をじっと見つめて、「そうか」と言った。
 留置所を出て、師匠は僕に言った。
「緒方から、とり憑いていた霊の気配が消えていた。あの、弓矢のせいかもな」
「油の弓、ですか」
 山田あすみが持ち去ったという、鳥井家に伝わる穢れ払いの弓。
「幼少期に壮絶な体験をし、視力を失った山田あすみは、常人とは別の感覚で世界を『見て』いる。そしてその世界では、霊的な存在も蠢いている。犬神人の血を色濃く受けついだ彼女は、それらのなかでも、悪意をもった霊を、穢れ払いの弓で射殺すようになった。かつて、道端に放置された無数の遺骸の骨を、穿って歩いた祖先のように」
 師匠はこれまでのことを整理しながら語った。
「母親の元を飛び出し、ヤクザ者の女になり、そしてそこからも姿を消した。去年の冬から、連続して発生していた通り魔事件。あれは、山田あすみが、悪霊を殺す穢れ払いを行っていたのかも知れない」
「緒方みたいに、他の被害者たちも、そんな悪霊にとり憑かれていたと」
「たぶんな。少なくとも、山田あすみ…… 弓使いの目には、そう見えたんだ。春に、国分川の向こう岸から、恐ろしい霊の群がやってくるのを見ただろう?」
「はい。死滅回遊だって、言ってたやつですね」
 師匠は、消滅を待つだけの霊道を歩く霊たちのなかで、種が芽吹くように急に強大化するものがいる、と言っていた。
 川を渡りながら、そんな恐ろしい悪霊になっていくものたちの群を、僕らは見た。見ていることしかできなかった。
「あのとき、私たちのほかに2人いただろ」
「いましたね。サラリーマンっぽい人と、あと1人」
「その、あと1人のほうは、攻撃しようとしていた。霊を」
「えっ」
 そういえば、そんな風に見えたような気がする。たしか、師匠が止めたのだった。「やめろ、1体じゃない」と。
「あれが、弓使いだったのかも知れない。いや、たぶんそうだ。去年あたりから、この街でおかしなことが増えている。霊的な現象も、明らかに増加している。私には、それらを誘発する、目に見えない悪意が、この街に蠢いているように感じるんだ」
 師匠がそんなことを言うのを、これまでも何度か聞いた。
「悪霊が川を渡ってくるのも、そうだと?」
「ああ。それは、山田あすみが姿を消し、弓使いが事件を起し始めたことと、恐らくリンクしている」
 僕が直感でそう思っていたことを、師匠がすべて言葉にして整理していった。
「邪魔をするな。邪魔をしなければ、わたしは犬神人だ。この街を…… 浄化する」
 師匠は、僕が雨のバス停で会った、山田あすみの言葉を再現した。最後の言葉は、雨にかき消されて聞こえなかったが、そんなニュアンスの言葉を言おうとしたのだろうと、今では僕も信じ始めていた。
「どうしたらいいんでしょう」
「どうしたら、とは?」
「僕らは、連続通り魔事件の犯人を追っていた。でも、弓使いは、悪霊を退治しているんでしょう? 街を守ろうとしているんじゃないですか」
「山田あすみの目には、悪霊にとり憑かれ、悪霊と重なっている人間は、見えていないのかも知れない。悪霊を撃った弓矢が、生身の身体も傷つけ、結果的に人を死に至らしめているんだ。このまま放ってはおけない」
「その人間が、緒方みたいに、他の人を苦しめるやつでも、ですか」
「……」
 そうだ。緒方は、結果的に弓使いに襲撃されたことで、ようやく正気に戻れたのかも知れない。
 僕は、弓使いを、その存在を、行為を、肯定し始めている自分に気づいた。
「犬神人に、どうして『犬』っていう言葉がついていると思う?」
 師匠は急に話の矛先を変えた。僕は意表を突かれて、とっさに返事ができなかった。
「この街の犬神人は、死体の清掃を行う京都の犬神人と比べて、穢れ払いという、一見、本来神職が行うような崇高な役割を果たしている。でもな。同じ『犬』って言葉を頭につけられてるんだ。蔑みをこめた、卑しい称号を。結局、人々にとって、死体の清掃も、死体の骨を弓矢で傷つけて歩く行為も、同じように穢れた、忌まわしい仕事だってことだ。だれかがやらなければいけない、この街を清浄に保つために必要な行為なのに、手伝いもせず、それに後ろ指をさして蔑んでいる……。私には、山田あすみが1人で背負っているこの業を見逃して、見てみぬ振りをするのは、かつて『犬神人』と呼んで蔑んだこの街の人々と、同じじゃないかって気がする」
 師匠は淡々とそう言った。僕は、頭を殴られたような気がした。
「山田あすみのジイさんが言ってたろ。孫を、あすみを止めてくれ、って。それでいいじゃないか」
 そう言って、師匠は吹っ切れたような顔をした。
 僕は黙って頷いた。



 しかし、それから山田あすみの捜索は進展しなかった。現時点で一番新しい情報は、酒井興業の西野という男のところから逃げた、というものだ。石田組の松浦から、西野を探るな、という警告を受けた僕らは、表立って西野の筋を追うことができなかった。小川所長に迷惑がかかる可能性もあったからだ。いくらこの件は小川調査事務所とは関係がない、と言っても、そんな理屈は通用しないだろう。ヤクザは、人の弱みを突くのに容赦はしない人種だということを、師匠はよく知っていた。
 師匠は僕も半ば捜索から外していた。暴力団を担当している刑事の不破のルートから、慎重に松浦の言葉の裏を取っているようだったが、それがわかったところで、現在の山田あすみの居場所を突き止めるのは至難のわざに思えた。
 長期戦を覚悟したらしい師匠は、これまでどおり小川調査事務所の依頼を受け始めた。ひとまず、弓使い側のアクションを待つ、というスタンスにしたようだ。プライベートでも、『オバケ』事案の依頼でも、霊現象と関わり続ける師匠は、いずれどこかでまた弓使いとカチ会うだろうと考えていた。
 ある日、小川所長が師匠と僕を、自宅に招待してくれた。奥さんの律子さんが作ったという、創作料理の新作を披露すると言って。そこに所長の刑事時代の同僚でもある不破も呼ばれていた。
「お、トーマ。また大きくなったか」
 不破は、7歳になる小川所長の息子を抱きかかえた。トーマは癖っ毛の頭を乱暴に撫でられて、それでも嬉しそうにしていた。
「これ美味いですね。なんの魚ですか」
 師匠は律子さんに、皿の上の魚料理のことを尋ねている。
「それは、スズキのガーリックハーブソテーよ」
 律子さんは物腰の柔らかな女性だ。タカヤ総合リサーチの高谷所長の娘で、その父親の事務所で働いていた小川さんと結婚し、小川律子になっている。
「あ、そうだ。このあいだ頂いた白ワインがあったわ」
 そう言って杖をつき、席から立ち上がろうとした。律子さんは昔の事故で、右足が不自由だった。
「ああ。いいよ、いいよ。取ってくる」
 小川所長は甲斐甲斐しく働く。仲むつまじい家族だ。
「ムニエルにしたら美味そうだな」
 師匠は魚料理をほおばりながら、そんなことを言っている。
 ちょっとしたコース料理のような豪華な夕食が終わって、僕らは窓際のウッドデッキのベンチで、憩いのひとときを過ごした。市内の中心部からは少し外れるが、2階建ての1軒屋で、なかなかの立派な家だった。これも僕らバイトをスズメの涙の時給で働かせて搾取している成果か、と思っていた。が、実際のところは、律子さんの持参金がわりで高谷所長が建ててくれたものらしい。固定資産税を払うのに必死、というところが小川さんの本来の甲斐性のようだ。
「またなにか不破と組んで、変なこと企んでるんじゃないだろうな」
 小川所長はワインを片手に、ぼそりと言った。
「もう弓使いも諦めましたしね」
 僕は師匠に語りかける。半ば嫌味で。
「大丈夫ですよ。迷惑をかけることはないです」
 師匠の視線の先には、広い庭で転げまわって遊んでいる、不破とトーマ君の姿がある。
「トーマ君はお父さん似ですね」
 僕は自分の髪の毛をくるくると摘みながら言う。「癖っ毛のところとか」
「……そうだな。将来は、跡を継がせようかな」
「あの零細興信所をか」
 師匠が笑う。
「じゃあ、こんな風にならないように、お勉強させなきゃね」
 隣の律子さんが微笑んで言った。
「ははは」
 小川所長も笑っていたが、しばらくしてから、「あの、律子さん? 冗談ですよね」と強張った顔で訊ねていた。
 
 そんなことがあった2日後のことだった。
 僕は師匠のアパートで、晩御飯を食べさせてもらった。おかずはスズキのムニエルだった。心霊スポットのことなど、たあいのない話をした。部屋を出るときには夜11時を回っていた。
 自転車にまたがって、ペダルをこぎ始めてしばらくすると、ゴロゴロゴロ、という音が空から聞こえていた。
 ひと雨きそうだった。曇っているのか、月は見えない。風が湿っているようだ。傘を持っていない僕は、急いで帰ろうとした。
 その瞬間だった。
 ふいに、時間が止まったような感覚があった。身体が動かない。いや、意識ははっきりしているのに、「動きたくない」と、手足が動作を拒否しているようだった。
 皮膚を、小さい虫が這い回り始めたような悪寒がする。ドロドロと、どこか遠くで、嫌な音が鳴っている。雷ではない。遠いその音は、糸電話のように、僕の頭蓋骨のなかで鳴っているのだ。
 いつか感じたことがある。これは春に、恐ろしいものたちの群が、国分川を渡ってきた、あのときに感じた予感だ。しかし、あのときとは比べ物にならない。汗が全身から吹き出し始めた。
 東。東だ。あのときと同じ。東から、なにかが来る。
 やがてその感覚が、緩やかになってくる。とてつもなく恐ろしいなにかが、街のなかに溶けていくようだった。
 金縛りから覚めたように僕はハッとした。そして自転車を反転させる。
 師匠のアパートに戻り、玄関から転がり込むと、部屋のなかでは、師匠が電話をかけていた。
「もういいっ」
 ガチャン、と乱暴に受話器を置いて、こっちを見る。
「馬霊刀だ。これほどとは」
 いつになく、余裕のない表情だった。
「馬霊刀って、いつか言ってた、馬塚から出た刀ですか」
「たぶん、馬霊刀が、国分川の橋を渡ったんだ。渡り終わってから、感じなくなった。やばいぞ」
 師匠は受話器に手を乗せたまま言った。「市の教育委員会に知り合いはいないか?」
「いません」
「いま役所に電話したけど、話のわからない宿直のジジイしかいやがらねぇ」
 師匠は悪態をつきながら、イライラと自分の膝を叩く。
「ああいう埋蔵文化物が発見されたら、教育委員会に報告が行くんだよ。今現在、あれがどこにあったはずなのか確認したいのに……」
「土地の所有者のところじゃないんですか」
「文化財に認定されたら、所有権は国か、県に帰属されるんだ。だから、えーと……」
 師匠は知識を総動員させて必死に考えている。
「あ、そうだ。警察だ。文化財に認定されるまでは遺失物だから、警察に遺失物届けが行くんだ。で、たしか認定の結果も警察に行くはずだから、警察でもわかるんじゃないか」
 師匠は受話器をあげて、電話をかける。
「不破さん。よかった、家にいた。頼む。1ヵ月くらい前に東署に届けがあったはずの、馬塚から出た出土品がいまどこに保管されてるか、調べてくれないか。大至急で」
 頼む、ともう一度師匠が言って、電話は切れた。引き受けてくれたようだ。
「ああ〜」と師匠は悔しそうな顔をしている。「また不破に借りを作っちまった。マジで貞操の危機だぞこれは」
 貞操の?
 こんなときなのに、僕は色めき立った。
 それなら、僕だって、師匠に貸しがある!
 ……いや、ないな。借りしかなかった。
「おまえ、あの脇差、持ってきてないよな」
 そう聞かれて、僕は手をブラブラさせる。最初は、弓使いに怯えて護身用の脇差入りのバットケースを持ち歩いていたが、このところはその危機感も薄れて、持ち歩かなくなっていた。というか、外で急に職務質問されて、銃刀法違反で逮捕されるほうが怖かった。
「ちっ」と舌打ちをする師匠に、僕は「そんなにヤバいんですか」と訊いた。
 いったい、馬霊刀とはなんなのだ。
「弓使いが、出てくるぞ」
 師匠は短くそう言った。僕はハッとする。そうか。そうだ。この春に、悪霊がこの街に侵入してくる気配を感じて、川に向かったあのときのように、弓使いもまた、それを察知して動き出す可能性があった。穢れ払いの業を、その肩に背負って。
 電話が鳴った。
「ああ、不破さん」
 早い。東署の夜番に同期か、貸しのある後輩でもいたのか。ひとことふたことかわし、師匠は受話器を置く。
「やっぱり、市の埋蔵文化財センターだ」
 師匠は地図を広げた。埋蔵文化財センターは国分川を渡った東側にあった。僕らが感じた異常な気配は、街のこちら側、つまり西側にやってきたはずだ。それを信じるなら、埋蔵文化財センターから移動したことになる。
 不破は、センターの電話番号もついでに調べてくれていた。
 すぐに電話をしたが、営業時間外だというアナウンスが流れるだけだった。
「とにかく、まずセンターに行ってみよう」
 師匠は立ち上がった。車の鍵と、部屋の隅に立てかけていた金属バットを手に取って。
 部屋の外に出ると、雨が降っていた。
 この街では、自転車があればたいていの用事はこと足りるので、師匠は車にはめったに乗らなかった。
「おい、おまえの家に寄るぞ。あれを取ってこい」
 師匠はボロ軽四の運転席の乗り込み、エンジンを掛けながらそう言った。
「あれって、あれですか」
 僕は刀を振る真似をする。心臓がドキドキしてきた。いよいよ、ただごとではなくなってきた。
 そんなもの持っていって、どうしようというのだ。僕は傷害罪で捕まりたくない。
 そんな感じの文句を、早口で言うと、師匠はふん、と鼻で笑った。
「この騒動では、有効かも知れない」
 そんな謎めいたことを言って、乱暴に車を発進させた。
 車はあっという間に僕のアパートに到着する。僕は雨のなかを走って部屋に入り、すぐに飛び出してくる。
「なんだ。そのビニール」
 助手席に戻った僕が手に持っている、黒いゴミ袋を被せた長いものを、師匠は見咎めた。
「バットとは違うんですよ。2重の意味で!」
「銃刀法違反と、骨董品ってことか」
「そうです」
 夜とはいえ、こんなものを持ち歩いているのを、だれかに見られたらまずい。それにこんな貴重品を雨に濡らせたくなかった。
「馬霊刀ってのはな、この地方独特の風習なんだよ」
 師匠は、車を運転しながら説明してくれた。
「おもに中世に行われたもので、発展段階にあった武士勢力…… 受領国司(ずりょうこくし)の郎党や、その支配に対抗する地元の富豪勢なんかがな、その宿営地に、死んだ軍馬をまとめて葬った墓を作ったんだよ。馬塚だな。その馬塚に、刀剣を一緒に納めたんだ。今までも何本か見つかってて、だれが付けたのか、馬霊刀って名前で呼ばれている」
「ニュースで言ってましたね。鎮魂のための魔よけじゃないかって」
「違うんだよ」
 師匠は吐き捨てるように言った。
「そんなしおらしいもんじゃない。大正時代に見つかった馬霊刀は、発見者の考古学者が自分の腹に刺して、崖から身を投げた」
「な、なんでですか」
「正気じゃなかったのは間違いないだろう。ファラオの呪いみたいに、日本でも墳墓を発掘したとき、祟りとしか思えないようなことが頻繁に起こることがある。高松塚古墳の呪いなんて有名な話だ。どれも、どこまで眉唾なのかわからないが、たぶん馬霊刀は本物だ。発見者や、発掘に関わった人間たちにことごとく、異変が起きている。今、現存している馬霊刀はない。大正時代の事件みたいに、いずれも、事故で滅損・紛失している」
 そんな話をしている最中にも、カーステレオからは稲川淳二の声が聞こえてくる。繰り返される、特徴的な擬音が。
「聞いたことないですよ」
「最後に見つかったのが、戦前だからな。もう60年も前だ。私も当時の記録で見ただけだ。でも、地元の史談会、考古学者界隈では、今でも知ってるやつは知っている。馬霊刀の呪いのことは」
「そう言えば、犬神人のことを教えてくれた宮内先生も、知ってる風でしたね」
 知ってるけど、語りたくない、という様子だったことを思い出した。
「喋るだけでも呪われる、って話もあるからな。三島、って言ったっけ。あの、発掘してた埋蔵文化財センターの所長ってやつは、それを知らないのか、平気でテレビカメラに撮影させてやがった」
 師匠は、くそっ、とハンドルを叩いた。
「弓使いのことばかり気にして、馬霊刀のほうは忘れかけてたけど、こんなにヤバイとは……」
「あ、そういえば。こないだ、遺跡の発掘現場で重機が倒れて作業員が怪我したって、新聞に出てましたね」
 僕も今の今まで忘れていた。流し見をしていたので、それが市の東部で見つかった馬塚の発掘現場のことだったのか、はっきり覚えていない。
「本当か? くっそ。見逃してたな。どうもアンテナが鈍っている」
 師匠は帽子の上から頭をガリガリと掻く。女性らしいとは言えない態度だ。
「なんで馬霊刀だって思ったんですか」
「あん?」
「いや、さっき、僕も感じましたけど、あのなにか嫌なものが迫って来る感じ。あれが馬霊刀だっていうのは、どうして」
「聞こえなかったのか」
「え」
「蹄の、音が」
 ボロ軽四は、国分川にかかる橋を渡った。この橋を、馬霊刀も渡ったのだろうか。だとすると、車か。
 川を渡ってから、途中で南に折れて、しばらく広い道を走る。
「ここだな」
 左折して、狭い道に入った。ヘッドライトに照らされて、道路に迫るように、かなり先まで墓地が並んでいるのが見える。
「いい雰囲気じゃないか」
 師匠の軽口に、カーステレオの稲川淳二が悲鳴をあげる。
「あった」
 入り口の石門に埋蔵文化財センターという文字が見える。門のところには、蛇腹のシャッターがあったが、ちょうど車が1台通れるくらいに開いている。軽四はそこから敷地内に侵入した。
 降り続く雨のなかに、どこか神社の社殿をイメージさせる3階建ての建物があった。
 2階の窓から、光が漏れている。1階の入り口は真っ暗だった。すぐ前に車を停めて、雨のなかを走る。
 玄関のガラス戸は鍵がかかっていなかった。貴重な文化財があるはずなのに、こんな夜中に玄関に鍵をかけていないはずはない。門のシャッターが開いていたことといい、なにかおかしい。
 師匠を先頭に、僕らはドアのなかに入る。すぐ左手に受付があったが、真っ暗で人影はなかった。ほぼ正面に、上に伸びる階段があった。上の階から、光が漏れている。
 階段の右手側には、展示コーナーがあった。かなり奥行きがある。暗くてなにがあるのかよく見えなかったが、ガラスケースが並んでいるようだ。
「行くぞ」
 小声で師匠が言い、僕らは階段を登った。
 2階に上ると、『研究室』とある部屋から、明かりが漏れている。なかを覗くと、事務机の間の床に、白衣の男が倒れていた。
「おい。大丈夫か」
 師匠が抱え起すと、男は呻いた。眼鏡をかけている。30歳くらいだろうか。ガタガタと震えている。まるで寒さで震えているような小刻みな動きだった。
「力が入らない」
 かすれた声でそう言った。
「怪我は、してないのか」
 師匠が男の身体を調べる。白衣には血の跡などは見当たらなかった。
「ここにはあんただけか。なにがあった」
 師匠がそう訊ねているあいだに、僕は研究室を見回して、外にも顔を出してみる。書庫や収蔵庫があるようだが、明かりはついていなかった。人の気配もない。
「怖い。なにか、影みたいなものが、いっぱい」
 それを聞いて、師匠は周囲に鋭い目線を向けたが、なにも見当たらなかった。
「それに、触られたのか」
 そう訊ねると、男は小刻みに頷いた。
「もういないな」
 師匠はそう呟く。
「ほかにだれもいないみたいです」と僕が言うと、師匠は「所長は? 所長はいないのか」と男の肩を軽く揺さぶった。
「所長が、持っていった。あれを」
「刀だな。馬塚から出た」
「あれはおかしかった。最初から。田代も怪我をした。新田さんも。……あれが、なにか連れてきたんだ」
 男は涙を流しながら震えた。
「所長はどこへ行った?」
「車の鍵を持って……」
「車に乗ったんだな。どこへ行ったんだ」
 男は首を振った。わからないらしい。ここでその手がかりがなくなると、行き先を見つけるのは不可能に近い。
 師匠は焦って訊ねる。
「なにか言ってなかったか。正気じゃない様子だったか?」
「……来月やる、展示室のリニューアルで、馬塚から出たあの刀の紹介コーナーを作ろうって話をしてたんだ。俺はやめたほうがいいって言ったんだ。おかしなことばかり起こるから。そしたら、所長の目つきが変になってきて。か、影が、まわりに見えはじめて……」
 男は震えながら、それでも続けた。
「そうだ、見せるものじゃないな、って急に言い出して、出て行こうとしたんだ。あの刀を持って。俺は怖くて。でも止めたんだ。そしたら、いや、行かなければ、って。く、供物だから、って」
「供物?」
 師匠は眉を寄せた。そして次の瞬間、目を見開くと、男を離し、自分のリュックサックから地図を取り出した。
 市内の地図だ。師匠はそれをガサガサと広げて、ある一点を指さした。
「左手」
 国分川沿いの城の近くに、人間の腕のような形のマークがある。春に、保育園で起こった奇妙な事件で、園庭から掘り起こされたマネキンの腕だ。師匠はその事件のあとこの地図を買って、マネキンの腕の絵を書き込んでいたのだった。
「頭」
 そう言って、師匠は地図上に指を滑らせ、北のほうの、商科大学のあるあたりでピタリと止めた。そこには人間の頭部を模したマークが描かれている。
 そのあとにあった別の事件で、マネキンの頭部が掘り起こされた場所だ。
「供物。馬霊刀が供物だと? 剣を持つ手。右手だ。右手の位置はどこだ」
 師匠は呟きながら近くの机に転がっていた鉛筆を掴んで、地図の上をなぞる。
「頭を起点に、左手と線対称の位置……」
 そう呟きながら、地図の上に、2つの丸を描いた。1つは、商科大学の北東。植物園の先のあたりだ。もう1つは商科大学の南西。柳ヶ瀬川のすぐそばだ。
 僕はゾクゾクしていた。師匠は、結局解決しなかった2つの事件と、この馬霊刀が消えた事件とが、繋がっていると考えているのか。
「線対称って、角度はどこからでてきたんですか」
 師匠が地図上でなにをしようとしているのかはわかった。しかし、頭と左手の位置関係はわかるが、このままでは中心線がどこにくるのか確定しない。
「マネキンの部品は、手首じゃなくて、腕だった。頭、左腕、右腕、左足、右足。そして胴体。末端は5つだ。保育園で地面に描かれていたのは、六芒星だった。しかし今度は5……。五芒星のはずだ」
 師匠は2つの丸に、補助線を引いた。北の、商科大学のあたりを頂点とした、2つの五芒星が現われる。ひとつは、北が上になっているこの地図で、僕らから見て右側に横たわっているもの。そして、まっすぐ直立したもの。2つの五芒星は『頭』のマークと、『左手』のマークの地点を共有している。
「仰向きか、うつ伏せか」
 五芒星を人体に見立てれば、右側に横たわっているほうは、頭部に対して左手が南側、右手が北側に、そして両足が東側にある。地図の上でそれを見下ろすと、うつ伏せになっているように見える。
 もう1つの五芒星は、左手が東。右手が西。足は南側だ。これは、仰向けになっているように見える。
「こっちだな」
 師匠は仰向けのほうの五芒星に大きく丸をつけた。
「仰向けだと、左手は国分川、右手は柳ヶ瀬川。そして左足も、ちょうど柳ヶ瀬川が河口に近づいて東に蛇行し始める場所で、その内側に入っている」
 僕らの住むO市の中心部は、東を国分川、西を柳ヶ瀬川という2つの川に区切られた空間の内側にあった。川境はかつての『クニ』の境だ。今の行政区のように、歴史的背景や政治的な事情で区切られる前の、もっとも原始的で合理的な『ウチ』と『ソト』の分かれかた……。
 僕も師匠も、国分川を渡ってくる悪霊に反応した。『ウチ』に侵入された、と感じたのだ。その『ウチ』に、大きく手足を広げて仰向けに横たわる、五芒星。
 なんだ、これは。
 なにか起こっている。この街で。それを直感でわかっても、いったいなにが起こっているのか、想像もつかなかった。
「小安寺の西だ」
 師匠は最寄の駅の名前を言った。そして柳ヶ瀬川沿いの、「右手」と書いた五芒星の端に、ぐりぐりと丸をつけて立ち上がった。
「悪いな。もう行く。救急車は呼んどく」
 師匠はようやく上半身を起したばかりのセンター職員の男にそう言って、地図をしまったリュックサックを背負いなおした。
 心細そうな男をそのままにして、僕らは1階に降りた。僕は師匠に指示されるままに、入り口側の受付にあった電話を借りて119番にかけた。
「急患です。埋蔵文化財センターです。早く来てください」
 そう言って、詳しい話を聞かれる前に電話を切る。イタズラと思われて出動してくれなかったら、悪いなと思ったが、震えていた男の様子も、大事はなさそうだったので、まあいいやと勝手に納得した。
 玄関の前に停めてあった車に乗り込むと、すぐに発進した。
「所長は刀を持って、本当にそこへ行ったんですか」
「わからん。ほかに手がかりがない」
「所長って、ニュースで見た、あの七三分けのおっさんですよね」
「ああ、宮内先生が三島君って言ってたな。軽率なところがあるってな!」
 師匠はアクセルを踏み込んで、かなりのスピードで飛ばし始めた。
 時計を見ると、夜の12時を回っていた。道路上のまばらな車を、ボロ軽四が次々と追い抜いていく。
 小安寺のほうということは、国分川を渡って市街地に戻り、東の端に行かないといけない。遠いな。
「供物ってなんですか」
「しるか。でも、思いついちまったんだよ。あのマネキンの部品を埋めるのは、なにかに捧げる、そんな行為なんじゃないかってな」
 保育園の事件でも、埋めていたのは結局なにものだったのか、わからないままだった。
 過去の事件と、今回のそれを結びつけた師匠の発想には、僕はついていけなかった。カンか。カンだとしても、僕には見えていない材料が、師匠のなかにあるからこその発想なのだろう。
「ついていけません」
 そう言いながら、僕は師匠のカンが当たっていることを、半ば信じていた。
 窓の外の闇のなかを、ときおり小さな明かりが流れていく。
 知らない間にもう、国分川を渡ったのだろうか。夜の道路を、師匠の運転する車が、蛇のようにくねりながら走っていく。
 かなり飛ばしているはずなのに、車内ではゆるやかに時間が流れているようだ。不思議と恐怖心はない。落ち着いている。とんでもないことに巻き込まれているというのに。
 荒唐無稽すぎて、頭が麻痺しているのだろうか。
 あれ。そう言えば、ビニールに入れて持ってきた刀はどこにいったのか。埋蔵文化財センターに入ったときは、持っていたはずなのに。忘れてきてしまったのだろうか。
「馬霊刀って、そんなに恐ろしいものなんですか」
 後部座席から、卵のような顔の隣人がひょっこりと顔を出して、尋ねた。
「なんだ、小沢。びびってるのか」
 師匠が茶化したように言う。
「私は中沢ですよ。馬のお墓に一緒に埋めてたってことは、あの所長が言ってたように、魔よけではないんですか」
「違うな。だったらあんなに、その刀自体に、呪いを誘発する力はないはずだ。はっきり言って、異常な力だ。発見された埋蔵物にまつわる呪いの話はたまに聞くけど、私が調べた限り、この馬霊刀はことごとく、とてつもない呪いを周囲に振りまいている。偶然じゃないんだ。なにか、存在の根源に、呪いが、怨念がまとわりついている」
 師匠はゆっくりとそう言った。
「では、馬霊刀って、なんなんですか」
 僕は何度目かの質問をした。これまでずっとはぐらかされていたけれど、その答えを聞いてもいいタイミングだと思った。
 師匠はハンドルを握ったまま、タンタン、と指でハンドルをノックする。
「昔の日本人てのは、今よりもはるかに信心深かったんだ。特に仏教だな。不自由で、理不尽で、ままならない生活のなかで救いを求める心は、真剣で、真摯だ。六道(りくどう)って言葉を聞いたことがあるだろう。仏教で、苦しみから解き放たれない存在が惑う、6つの世界だ。天上道や、人間道、餓鬼道など、人はそれらの世界を輪廻転生して苦しみ、惑い続ける」
 師匠の静かな声がゆるゆると車内に流れる。
「中世の日本では、それまでの国司よりも権限を強化された受領(ずりょう)による領地支配が、苛烈になっていった。それに対抗する、土着の富豪、富農たちによる暴力的な圧力。またそれに抵抗するために、受領は武装した集団を手勢として育て、また雇い入れ、紛争を収める力を手に入れた。武士の誕生だ。やがて武士は、力で既存権力を覆し、貴族社会を終わらせることになる。その黎明期、このO市では、受領の郎党と呼ばれる武士集団がいくつかあった。彼らはまた、市井の人々と同様に信心深かった。六道のうち、修羅道という世界がある。修羅となって永遠に終わらない戦いに明け暮れる、血塗られた世界だ。戦場で命を落とした武士はこの修羅道に落ちると、彼らは信じていた。命を散らし、奪い合う、自らの業のために。そんな彼らが、死んだ軍馬を一箇所に集めて弔った。その塚には、一振りの刀を添えた。なぜだと思う」
 師匠が、こちらにチラリと視線を向ける。僕と卵顔の隣人は、2人とも首を横に振った。師匠が口を閉ざしたままだったので、仕方なく、といった様子で、卵男が言った。
「祟らないように、魔よけとして置いたのでなかったら、あれですか。成仏するように、ですか」
「違う」
 師匠が冷たい声で言った。
「戦い、死んだ彼ら武士が、修羅道に落ちたあとで、永遠の戦いの世界で軍馬に乗るためだ。つまりその刀、馬霊刀は、馬たちの魂を、地獄に落とすために埋められた、呪物なんだ」
 車は、音もなく走る。暗く、重層的な景色が窓の外を過ぎ去っていく。
 空気が生ぬるい。僕は息苦しさを覚えて、助手席の窓を開ける。けれど新鮮な空気は車内に流れることはなく、ただ滔々と夜が染み出してくる。
「なるほど。やっぱりあの馬霊刀は、私にくれませんか」
 卵男がぽつりと言った。
「なに言ってんだ中沢」
 師匠が笑う。僕も笑う。そんなつるんとした顔で、急に変なことを言うから。
「私は中沢ではなく、角南ですよ」
 ピィン――――。
 瞬間、車内の光景が反転した。白いものは黒く、黒いものは白く。
「供物には、相応のものがいい。毒を飲むように、他者の人生を演じるように。美しいものはみな、己を破壊する。それらの朽ちた刀は、馬たちの魂を地獄に封じ続けることに抗い、自らを消し去ろうとするのですね」
 どこにもいなかった。車には、僕と師匠しか乗っていなかった。いつの間にか、そいつは、あたかもずっと乗っていたかのように、僕らと会話を交わしていた。まったく、僕にも師匠にも、違和感はなかったのだ。記憶が改変されていたとでもいうように。
「おまえ」
 師匠は、白黒が反転した世界で、金縛りに抵抗するように口を開く。僕は身じろぎもできない。
「そのなまえが、ほんとうのなまえか。わたしにきづかせも、しないなんて」
 師匠の部屋の隣に住んでいた、奇妙な隣人は、滑稽で楽しい男だった。師匠も食べ物をたかりに来るその男を、時に部屋に上げ、僕らと一緒に語りあい、笑いあった。
 僕らは、そんな日常の光景のなか、ずっと喉元に突きつけられていた刃物に、気づきもしなかったのか。
「おまえはなんだ」
 師匠の声が、窓を開けた車内に反響する。まるで窓の外には、真っ黒な壁しかないかのように。
「私は、心臓ですよ」
 バクン。
 男が、一瞬膨張したように感じた。
 バクン。……バクン。
 大きな鼓動が聞こえる。
 バクン。……バクン。……バクン。
 その音に合わせて、男の胸が膨らみ、また収縮する。
「輝きを変える心臓です。あなたは気づきませんでしたね。私が、もっとも暗いときにしかお会いしなかったから」
 バクン。……バクン。……バクン。……バクン。
 男の胸が激しく脈打ちながら、キラキラとした光を放出しはじめている。
 だめだ。死ぬ。2人とも。
 師匠は、口を開くこともできなくなった。僕ももう、塑像のように白と黒の景色の一部になって、凍りついている。
 冷たい時間が僕らの頭上に降ってくる。
 死ぬ。
 最後に、そう思った。
 その瞬間だった。
 窓の外を歩いてくる人影があった。
 コツン、コツンという小さな足音が近づいてくる。
 人影が大きくなる。レインコートを着ている。その左手は、こちらに突き出されている。半身になって、右手は大きく後ろへ引いている。
 空気がどろどろとした粘性を持って、車内を押し包む。
 その人影の思念が、空間を侵食していく。殺意が満ちていく。
 見える。僕の目にも見える。開け放った窓の外に、引きぼった弓が。弓につがえられた矢が。その先端が。
「ようやく出てきたか。おまえを見つけるのは、難しかった」
 レインコートのフードの奥から、静かな声が聞こえる。
 卵男の胸が、鼓動を止めた。助手席の窓の外から狙いを定める矢の先端は、後部座席の卵男に向けられている。
「まいりましたね。先回りされていたとは。やはり、もっとも危険なのは、あなたでしたね」
 卵男は、おどけたような軽い声を出した。
「ぐそうむどいと、ゆみつかい。2人に挟まれては分が悪いかも知れない」
 ぐそうむどい。その言葉を聞いて、思い出した。去年の夏、今年と同じようにそうめんを食べた。僕と師匠と、隣人の卵男と3人で。そのとき、テレビを見ながら師匠が言ったのだ。沖縄の小さな島で、『ぐそうむどい』と呼ばれたことを。
 意味はわからなかったが、その言葉は妙に心に残っていた。なにか不吉な響きがあったからだ。
 視界の端に、光の粒子が見えた。はかなく舞う、輝きが。
「ではいまからあの……」
 卵男が、なにか言おうとした瞬間、「死ね」という言葉とともに、収縮する弓が空気を振動させた。
 放たれた矢は、空中で掻き消えていた。ただインイン……、という余韻だけが震える弦に残っている。
 ザァァ……。
 雨の音が耳に叩きつけられる。車内に冷たい飛沫が跳ねいってくる。
 時間が動き出した。
 車はいつの間にか停止している。いったいいつから?
 ずっと降っていたはずの雨も、さっきまでの車内では存在が消されていた。
 後部座席の卵男はいない。いなくなった。
 急に現実感が戻ってくる。
「うわぁああ」
 僕は腰を浮かせて喚いた。なにかに、ではない。なんだかわからないが、とにかく叫んだ。
「うるさい」
 師匠に怒鳴られる。
「ここはどこだ」
 そう言う師匠につられて、僕も周囲を見回す。小さな街灯に照らされて、体育館のようなものが目の前にあった。その駐車場に車は停まっているらしい。右手側の奥には、テニスコートのようなものも見える。ハッとした。地図で見た、あの場所だ。小安寺駅の西、柳ヶ川の側にある武道館だ。師匠が推理して、地図に丸をつけた目的地。
 到着していたのか。なのに、僕はずっと闇のなかを走り続ける車内にいたような幻覚に捕らわれていた。
 幻覚?
 窓の向こう。レインコートの人物が、雨のなかに立っている。これは、幻覚じゃない。
「斃したのか」
 運転席から師匠が言葉を投げかける。
 レインコートの人物は首を横に振る。
「逃げた。次は殺す」
「あれがなんなのか、知ってるのか」
「……」
 師匠の問いかけに、無言で、レインコートのフードを取り払った。そして闇のなかに身構える。
 いななきを、聞いた気がする。
 息づかいと、体臭。蹄が地面を穿つ音。密集した気配が、窓の外を駆け抜けた。
 馬だ。馬が走っていく。無数の影が。解き放たれたように。僕の目にも、その幻がはっきりと見える。
「なんだと」
 師匠が運転席の横に寝かせていた金属バットを持って、車外に飛び出した。僕も驚いて、あとに続く。左手には黒いビニール袋で包まれた長いものを持っていた。さっき車のなかで、僕は自分が手に持っていたものを、見つけられないでいたのか。あらためて、さっきまで、思考がコントロールされていたような感覚に、吐き気を覚える。
 降りしきる雨のなか、走る馬の群れの気配は、すぐに消えた。それでも力強い蹄の音が今も、頭のなかに残響している。
 レインコートの人物は、構えを解いてこちらを見ている。いつか見た、あのときの顔だ。そして障害者手帳の写真のなかで、無表情にこちらを見ていた、あの顔。
 短く切りそろえられた前髪が、22歳という年齢に相応しくない幼さを表しているようだった。けれど右目は無残な傷あとで覆われ、左目は、どこか焦点が定まらないでいる。それでいて、こちらのすべてを見透かしたような、そんな硬質な威圧感があった。
「山田あすみだな」
 師匠が言った。
 その女の手には、さっきまで握られていた弓はない。しかし、まっすぐ下げられた左手は、まるでなにを掴んでいるような指の形をしていた。
 弓だ。弓を持っている。
 そう思ったとき、僕の脳は握られた手のなかの弓の形を、勝手に想像している。それはすぐに色彩を持ち、重量感を持ち、実在の弓に変る。なんだこれは。
 いつか見たテレビのショーで、催眠術にかけられたアシスタントが横たわり、まるで鉄の棒になったみたいに、頭と足の先だけで自分の全体重を支えているのを思い出した。
 あれはきっと手品だ。思い込みの力が、人体の組成を変えるなんて、あるはずがない。だから、これも。この弓も、撃たれた人々の傷跡も、思い込みの力なんかではなく、手品であるに違いない。
 ふいに、弓使いが視線をそらした。その向こうからは、冷たく湿った空気が漂ってきている。
 川か。西の柳ヶ瀬川。東の国分川と、この街を挟むクニ境の川。
 その方向は、馬たちの霊が駆けてきた場所だ。
 師匠が雨のなかを走り出した。武道館の周囲は、畑ばかりだ。真夜中の道には僕らのほかにだれの姿もなかった。
 すぐ先には堤防があった。そのそばに、車が一台停まっている。白いバンだ。人の乗っている気配はなかった。
 僕は転びそうになりながら、堤防の下の河原に降りる。
いる。
 白衣が、雨のなかにうっすらと浮かび上がっている。河原のなかにたたずんでいる。いや、しゃがんでいるのか。
 影のようなものが見える。その周囲には得体の知れない、どろどろとした気配が揺れていた。目を凝らすと、それらは鎧を着た武者姿のように見える。カロカロと、甲冑が打ち付けあうような音が、いっせいに聞こえてくるような気がした。それはつまり、こちらを振り向いたということだった。
 い?
 来る。こっちに来る。揺れながら、その影たちは河原に降りた僕らのほうへやって来ようとしていた。怨念のかたまりが、顔に吹き付けてくるようだった。正視できないようなおぞましい恨みの感情が、こちらに向けられている。
 彼らは、馬霊刀に軍馬の魂を地獄に落とさせようとした武士たちか。職業的な戦争屋として、命の奪い合いに明け暮れた彼らは、死してなお、戦いを望んでいる。そのための乗馬を求めて、さまよっている。発掘された馬霊刀に引き寄せられて、ここまでやってきたのだろう。
 ザァァ……。
 雨粒で僕らの身体はびしょ濡れだった。顔を手のひらで拭う。隣に立つ師匠は、金属バットを構えて大きな声を出した。
「先に来てたんだろう。あいつは、どうなってる。殺したのか」
 弓使いに向けた言葉だ。振り向くと、堤防の上に、レインコートを着た女が屈み込んで、両頬を自分の手のひらで包んでいる。あいつ、とは白衣を着た男、埋蔵文化財センターの所長のことか。
「いや、見てただけだ。あの見えない悪意がやって来るのを、待ち構えていたから。……そいつは、刀を埋めていた」
 女はそう言った。
 埋めた? 馬塚から掘り出された刀をまた埋めた。
 つまりそれは供物としてか。彼自身が言っていたように。
「うわっ」
 武者姿の影たちが手を伸ばしてくるのを、師匠は避けた。僕の周りにも、そんなやつらが蠢いている。
 彼らはあきらかに戸惑っていた。さっき走り去った馬たちに、逃げられたからだ。戸惑いながら、怨念を撒き散らしていた。
「くそっ」
 師匠は金属バットを振り回しているが、影たちは反応しない。そんなバットなど存在しないかのようだ。
「やれ」
 師匠が僕に命令した。僕は左手のなかのそれをぐっと握り締める。
「早く。おまえが使えるのは、知ってんだ」
 ドキッとした。知っていたのか。
 ビニール袋を外し、なかから一振りの刀剣を取り出す。
「あの脇差じゃないのか」
 師匠が驚いて僕を見る。
 僕の手のなかにあるのは、2尺4寸の居合い刀だった。『小』と呼ばれる脇差よりも長い、『大』。れっきとした刀だ。
 家を出るとき、父親から押しつけられた刀だった。僕に古流の居合いを叩き込んだ、その父から。
 僕は腰を落とし、左手で居合い刀の腹を握る。そして右手をじわりと柄の下に置く。
 霊は、自らの記憶の残滓のなかで存在している。いつか、師匠のかつての相棒、黒谷夏雄がライブハウスに現われた霊を、壁ごと拳で殴りつけて消滅させたように。かつて知る暴力の記憶が、その存在を傷つけ、もう一度殺す。
 刀や槍の切っ先の乱舞する世界で生きてきた彼らは、師匠の持つ金属バットは脅威として見えないのかも知れない。しかし、この居合い刀なら。
 は、は。
 全身に降りかかる雨音のなかで、自分の呼吸を感じる。
『この騒動では、有効かも知れない』と師匠が言っていたのは、このことか。
 一閃。
 子どものころから何度も繰り返し、身体に染み付いた動き。
 狙いは首筋だった。武者姿の霊は、雨のなかに倒れる。ほかの霊たちも慄いて、後ずさった。
 いける。
 カロカロカロ、と甲冑の音が聞こえる。
 次の瞬間、左前方にいた武者の右目に、矢が突き立った。
 あっ、と思う間もなく、次々に矢が武者たちの甲冑のない場所に突き刺さっていく。
 僕も、師匠も動けない。僕らの背後から、矢は飛んでくる。暗くて見えないはずなのに、その矢は見える。なぜか、見えるのだ。
 武者の霊たちは、苦しみながら倒れていく。倒れながら、消滅していった。
 僕が、なにをするのか見ていたのか。そして、もうわかった、とばかり、堰を切ったように弓矢を放ち始めた。
 一方的な殺戮は続いた。矢が射掛けられていない霊たちも、怯えながら、どろどろと闇に溶けるように消えていこうとしていた。
 やがて雨だけが残った。
 渦巻いていた怨念はすべて消えた。安らぎなどではなく、暴力的な嵐のなかで。
 師匠が走り出した。弓使いのほうを振り向きもせず、河原のなかほどに座り込む白衣に向かって。
「おい」
 走り寄った師匠がその肩を揺さぶると、白衣の男はその場に崩れ落ちるように倒れた。
 師匠はその胸に耳を当て、鼓動を確かめる。
「気絶している」
そう言った。生きているのか。
 白衣の人物は、ニュースで見たあの日焼けした男だった。埋蔵文化財センター所長の三島だ。馬霊刀を供物だと言って、持ち去った男。
 三島は、馬霊刀を持っていなかった。
 師匠はその足元の砂利を手で掘り始めた。僕も駆け寄って手伝う。河原の砂利は、簡単に掘ることができた。
 指先になにかが触れた。同時に触った師匠が、それを掴んで、引っ張りあげる。
 マネキンの腕だ。それも、右の腕。
「刀はどうした」
 師匠が叫んで、周囲の砂利を片っ端から掘り返していく。しかし、それ以上なにも出てこなかった。
 降り止まない雨のなか、黒いマネキンの腕だけが残された。
 師匠は無言でその腕を川に放りなげた。この雨で増水して、流れが速い。見ているあいだにも、水位が上がりつつあった。この河原もやがて水中に没するのかも知れない。
 小さな水音を立てて、マネキンの腕は流れのなかに消えていった。
 師匠と僕は2人で気絶した三島を抱えて、堤防を越えた。弓使いはレインコートのフードを深く被り直し、離れた場所で僕らをじっと観察している。視覚障害1級のはずの、その目で。
 雨に濡れながら、武道館の駐車場に止めていた師匠の車の後部座席に、三島を押し込む。
 ドアを閉じて、師匠は振り返った。
 雨のなかに弓使いが立っている。左手にはなにも持っていない。右手には厚手の手袋をしている。
「緒方を襲ったのは、おまえだな」
 師匠が鋭い口調で言った。
「去年の冬から、弓矢で通行人を襲っていたのも」
「通行人?」
 弓使いは笑っているようだ。
「私は犬神人だ。この街を清浄に保つための。やつらはゴミだ。害悪を撒き散らす悪霊だった」
 透明で、よどみのない声だった。自分の正義を、存在意義をまったく疑っていない。そんな声だ。
 変質者に誘拐され、両目を抉られて、5年間にわたって監禁された。解放されたあとも、全盲の障害を負いながら両親から半ば見捨てられ、ヤクザの女になり、売春行為を強要されていた。
 そんな過酷な生き方をしていた彼女に、どうしてそんな涼やかな声が出せるのだろう。
 僕は彼女に、同情という共感を抱いていたが、こうして向いあってみて、なにか別の感情がわきあがってくるのを感じていた。
 僕はその正体を知るのが怖かった。まるでそれは、師匠に初めて会った日から抱いているような……。
「自首しろ」師匠の声が、雨音を割って響いた。「お祖父さんも心配してるぞ」
 くくく。
 弓使いは、笑った。
「あのジジイは、わたしを抱いて、死んだババアの名前を呻いて果てるやつだぞ」
 ぞわっとした。
 全身が総毛だった。人間の、底の見えない業に。
 師匠も絶句している。
「邪魔をするな。この街に潜んでいる、あの見えない悪意は、私以外の手には負えない」
 弓使いはそう言い放った。
「てめぇ」
 師匠が殺気を込めた低い声を出した。雨の降り続くなか、空気は凍りついている。向かい合い、お互いに隙を見せずに睨み合っている2人の頭上に、雷の光が走った。すぐに轟音が響く。近い。
 その音にも微動だにしない彼女たちの顔が、白い残像を残して、また闇のなかに沈んでいく。
「協力できないか」
 僕はとっさに叫んでいた。師匠が「おい」と怒鳴る。
「なにがなんだかわかんないよ! 魔方陣だとか、見えない悪意だとか、消えた大逆事件だとか! なにが起きてんだよいったい! 正直うんざりだよ。わけわかんなくて! でもなにかとんでもないことが起こってるっていうんなら、いがみ合ってる場合じゃないよ! 協力しろよ」
 僕が喚き散らすのをじっと聞いていた弓使いは、
「おまえも、面白いな」
 そう言って、フードの奥の、その見えない目を僕に向けた。
「やめろ」
 師匠が鋭く言った。僕と弓使い、両方に向けた言葉のようだった。
 弓使いは師匠に顔を向け、口を開いた。
「おまえたちは、このまちで……」
 そう言いかけた瞬間、「ぐぐぐぅぅ」、という大きな音が鳴った。弓使いの腹から聞こえたのだ、ということに気づくのには少し時間がかかった。
「帰る」
 弓使いは、くるりと背中を向けると、歩き始めた。
 腹の虫か。僕は驚いてその背中を見送っていた。
「逃がさねぇよ」
 師匠がそう言って、追いかけようとしたとき、弓使いの背中から、強烈な気配が沸きあがった。殺気だ。このあいだ、師匠が僕にやってみせたような、相手を害そうとする悪意。
 それが、空間を捻じ曲げるような密度で、迫ってくるのを感じた。僕は思わず、師匠の腰にしがみついた。
「やめてください」
 師匠は喉の奥から唸り声をあげて、それでも動きを止めた。
 見まいとしても、見てしまう。弓使いの、なにも持っていない左手に、弓の形を想像してしまう。はるか昔から、この街で穢れ払いを行っていたという、油の弓、という名前の弓を。僕らはそれを、見たこともないはずなのに。
 弓使いは、振り向きもせず、そのまま駐車場の隅に置いていた、スクーターにまたがった。エンジンがかかる音がする。
 レインコートのフードを取り去り、ハンドルにかけていたヘルメットを構えて、弓使いは最後にこちらを見た。
 薄暗い街灯の下で、にこり、と笑いかけているように見えた。動けない僕らの前で、弓使いはヘルメットを被り、スクーターを発進させた。そのまま、走り去っていく。
「離せ」
 腰に抱きついていた腕を振り払われた。師匠は、濡れた髪をかき上げながら、深く息を吐いた。そして、手にした金属バットを構えて、その場でフルスイングした。
「うわっ」
 風圧を感じて、僕は思わずのけぞった。跳ね飛ばした雨が、顔に当たった。
「なんだってんだよ」
 師匠は雨の降り続く暗い空を見上げて、叫んだ。
 


 それから僕と師匠は、市内の救急病院へ三島所長を運んだ。後部座席で揺られていると、途中で気がついたようで、「いいいいいい」と怯えた声を出した。
 三島は、これまでのことを覚えていた。傍観者のように。
『檻のなかにいた』
 そう表現した。埋蔵文化財センターで部下の男と話しているときに、急に意識が朦朧として、まるで自分の手足や口が、自分のものではないように、勝手に動いていた、という。それを、檻のなかに押し込められた自分が、ぼうっと見ていたそうだ。
「あの刀は、河原に埋めたのか」と師匠が訊くと、「なぜかわからないが、埋めていた。埋めたら力が抜けて、檻が暗くなった」と言う。
「埋められた馬霊刀は、消えた。消えたから、馬の霊たちは解放された。だがなぜだ。どこへ消えた」
 師匠はひとりごとのように呟いた。
「供物とはなんだ」
「わからない。なにもわからない」
 三島はそう繰り返すだけだった。
「角南、という名前に聞き覚えは?」
 師匠がそう訊ねると、意表をつかれたのか、妙な顔をして、「ああ」と言った。
「し、市の委託で、市営運動場の移転計画のための地質調査をしてたのが、角南技研だった。……その調査中に、馬塚が出たんだ」
「角南技研…… 角南建設の、関連会社か」
「こ、子会社だったと、思う」
 三島はクシャミをした。夏とはいえ、ずっと雨のなかにいて、全身びしょ濡れだった。それだけではなく、センターに倒れていた職員のように、得体の知れない悪寒に苛まれて震え続けていた。
 救急病院に着くと、三島を下ろした。あれこれ聞かれると面倒なので、付き添いもせずにそのまま立ち去ろうとした。
「ありがとう」
 頭を下げられて、師匠は、「いまは名乗れないけど、ありがとうと思ってくれるんなら、そっちの名刺をくれないか」と言った。
 三島は震えながら、ポケットを探り、濡れてクシャクシャになった名刺を1枚くれた。
「またなにか訊きにいくかも知れない。そのときはよろしく。あと、堤防のところにバンが停まってたの、あれ多分あんたが乗ってきたセンターのやつだろ。忘れないうちに取りに行っとけよ」
 三島と別れて、僕らはまた2人になった。
 あまりにも多くのことがあって、まだ頭は混乱したままだった。馬霊刀は消えた。弓使いは、恐ろしいやつだった。そして……。
 師匠はボロ軽四を飛ばし、アパートに帰り着いた。僕らは車から降りても無言だった。確認すべきことがある。
心臓がドキドキと鳴っている。濡れた服も着替えないままで、師匠の部屋ではなく、その隣の部屋のドアノブを握った。
 カチャリ。ドアが、少し手前に動いた。開いている。
 まだ雨は降り続いている。
 僕と師匠は薄暗闇のなか、ドアを挟んで見つめあい、頷いた。
 師匠がドアを開け放つ。すぐに僕らは土足でなかに乗り込んだ。部屋は真っ暗だ。師匠の部屋と同じ間取りのはずだから、電灯の紐があるであろうあたりを、手探りする。すぐに紐は見つかり、引く。
 パァッ、と部屋に明かりがつく。ずっと暗いなかにいた僕らの目には強すぎた。目を細めながら、部屋の真んなかに立っている僕と師匠に飛び込んできた光景は、信じ難いものだった。
 なにもない。
 部屋には、なにもなかった。家具も、人が住んでいた痕跡も。からっぽだった。いや、違う。ひとつだけあった。
 それは、仮になにもなかったときよりも、奇怪で、薄気味の悪い光景だった。
 部屋の隅に、百科事典の棚があった。去年のクリスマスに、僕が借りた百科事典だった。
『コロッケの何をお調べになったのです?』
 その隣人の顔を思い出そうとする。百科事典はこうして、存在していた。そうだ。僕が借りたからだ。
「おまえ、こいつの部屋に入ったことあったんだろ」
 師匠は押し殺した声で、そう訊いてきた。
 そうだ。僕は隣人の部屋に入ったことがある。そのときに、百科事典があったのを覚えていたのだった。だが、それ以外が思い出せない。
 自分の顔を手のひらで撫でる。まるで自分のものではないような気がした。なにも信じられない。
「埃が積もってる」
 師匠は部屋の壁沿いを指でなぞった。畳の上には、たしかに埃が堆積していた。昨日今日、家具を持ち出したのではないのは、確かだった。
 いったいいつから、この部屋はこんな状況だったのだろうか。
 怖い。僕は恐怖に身体が縮こまりそうだった。
 あの男の顔が、もう思い出せなくなっている。
 卵のようにぺろりとした、特徴のない顔だった。その印象だけが、記号のように頭に残っている。
 部屋の壁に、もう1つ、妙なものがあった。
 白いパンティだ。1枚のパンティが、壁にピンで留められていた。
 師匠がそれを毟り取り、「ふざけた野郎だ」と言った。
「師匠のですか」
「なくなってたやつだ。おまえが犯人かと思ってたけど」
「そんなことしませんよ!」
 僕はさっきまでの寒気のする気分を引きずったまま弁明した。僕の部屋にあるのは、別の柄のやつだったはずだ。
「なんだ」
 パンティの下から、小さな紙が落ちた。一緒にピンで留められていたのか。
 師匠がそれを拾い上げる。メモ用紙のようだ。なにか書いてある。
「正応3年の客星について調べてみなさい」
 師匠がその言葉を読み上げた。書いてあったのはそれだけだった。
「正応3年の客星?」
 そう呟いて眉を寄せている。師匠にもなんのことがわからないようだ。
「角南って名乗りましたね」
 僕は確認するようにそう口にした。ありもしないことを、僕の頭が勝手にそう記憶しているのでない限り。
 小でもなく、中でもなく、大でもなく。
『あの見えない悪意は、私以外の手には負えない』
 弓使いはそう言っていた。
 地図上の、巨大な五芒星。マネキンの身体の各部。それと引き換えに消えた馬霊刀。供物? 
 いったいこの街で、なにが起こっているんだ。雨のなかの自分の叫びが脳裏に甦る。
 僕の頭では、今日あったことの処理すらできない。混乱し、酷く疲れていた。ただ師匠は、真剣な表情で、じっと考えていた。たった1つ残された、百科事典の詰まった棚を見ながら。彼がたしかにいた、という痕跡はそれしかなかった。
 そして静かに口を開いて、言った。
「あいつは、嫌いじゃなかった」
 師匠のその言葉に、僕もそうだった気がして、頷いた。

(完)



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