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『館』 下

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私は来た道をたどり、中央館へ戻った。
そして暖炉の部屋に入ると、京子たち4人はまださっきのボードゲームに興じていた。
「あら、おかえりなさい」
遅かったわね、とは言われなかった。他人の家のなかを探索していたことが、ふいにひどく浅ましく思えて、京子から目をそらした。
ボードゲームは京子が勝ったようだ。志保は悔しそうな顔をしていた。ずいぶんと寛いだものだ。
「ケーキを食べましょうか」
京子がそう言って立ち上がる。そして、みんなで食堂へ移動した。
京子が用意していたケーキは、大きく立派なデコレーションケーキだった。さすがに自分で焼いたものではないだろう。
ローソクの演出はなかった。庶民のするような、そういう風習はないのだろうか。あるいはケーキの上に、私たちと違う17本のローソクが立つのが恥ずかしいのかも知れない。
ケーキを食べながら、なんとなく食堂の隅に置いてあった木製の人形の話になった。
京子がそのピノキオのような人形にまつわる恐ろしい逸話を口にした瞬間から、食堂に重苦しい空気が流れた。
京子の友だち2人も、志保も、笑顔が強張っている。
京子はその様子に気づいていないのか、無視しているのか、わからない顔で、この家にあるというそのほかの奇妙な物の話を始めた。
京子は嬉しそうだ。このほうが、私にとってはすっきりする。そういうやつなんだから。
京子が1人で喋り続けていると、やがて呪いの椅子の話になった。
「ザ・バズビー・ストゥープ・チェアってご存知かしら」
その場の全員が首を左右に振った。私はどこかで聞いたことがある気がして、黙って続きを待った。
「18世紀のイギリスで、トーマス・バズビーという男が殺人罪で絞首刑になったの。彼が愛用していた椅子が、残された妻によって処分され、20世紀のなかばにはバズビー・ストゥープ・インというパブに置かれていた。死を招く呪いの椅子と呼ばれて。度胸試しに多くの若者が座ったけれど、次々と突然の死を迎えたわ。その数は、椅子がパブにあった26年間で61人と言われている」
京子がそんなことを言うと、みんな自分の座っている椅子がその椅子じゃないか、とばかりに、そわそわし始めた。
「バズビーズ・チェアは、その逸話とともに、ヨークシャーにあるサークス博物館に寄贈された。今でもそこにあるそうよ。もうだれも座れないように天井から吊るされて、ね」
なんだ。この家にあるなんていうオチじゃないのか。ひょうし抜けしていると、京子は続けた。
「バズビーズ・チェアほど有名ではないけど、私のパパが昔、カルカッタで似たような逸話のある椅子を手に入れたの。『フェレイクシアの恋人』という名前の椅子なんだけど…… 女が座ると死ぬ、と言われているわ」
おい。
首筋がぞわぞわした。
「フェレイクシアというのは椅子を作った職人の名前だそうよ。彼は病気で若くして死んだのだけど、女性と一度も結ばれなかったことを、とても悔しがっていた。だから、死んでからも、彼が生前、死ぬ間際に作った椅子を見守り続けていて、腰掛けた女性を、あの世へ呼ぶんですって。自分の恋人にするために」
おい!
私は立ち上がり、テーブルを叩いた。
「そんな椅子を、普通の部屋に置いておくな!」
すべてわかってしまった私は、怒った。
京子はきょとんとした顔をしている。
「さっき、むこうのほうの別館で、その椅子を見たぞ。階段を通り過ぎたところの部屋だ。部屋の真んなかに普通に置いてあったぞ。あれがそうなんだろうが!」
それを聞いて、京子は目を見開いた。
「あなた、座ったの?」
やはりか。この女。どこまで計算ずくなんだ。表情や言葉から読み取れることは、あまり信用できない。
「あ、でも、うそよ。座れないわ。部屋には鍵がしてあるもの」
鍵だって? 鍵は掛かっていなかったじゃないか。
「開いていたぞ」
「そんなはずはないわ。いつも、開かないように鍵を閉めているから」
「家政婦が閉め忘れたんじゃないか」
いくら来客がなく、使っていないといっても、掃除ぐらいはたまにするだろう。
「そんな椅子がある部屋なのよ。戸締りには気をつけているわ」
こいつにしては、良識的なことだ。でも鍵は間違いなく開いていた。
「確かめてみましょう」
京子も立ち上がった。
首からネックスレスのようにかけた鍵束が、ジャラリと音を立てた。
「鍵はそれだけか」
「パパの部屋にもあるけど。部屋に鍵をかけているから。今は使えるのはこれだけ」
私たちのやりとりに戸惑っていた残りの3人も、立ち上がって一緒に食堂を出た。
京子を先頭に廊下を進みながら、私は志保に耳打ちをした。
「なあ。私がトイレに行っている間、だれか部屋から出なかったか?」
「えっ。出てないよ。ずっとゲームしてたから」
だれかが先回りして鍵を開けた、ということはなさそうだ。だったら、やっぱり最初から鍵は開いていた、ということになる。
私たちは廊下を折れて、別館のほうへ向かう通路へ入る。
そして別館の廊下に入り、階段の横を通り抜けて、左手にある部屋の扉の前に立った。
あれ? そのとき、なにか違和感を覚えた。
なんだろう。
答えが出る前に、京子が扉の取っ手に手をかける。バーを下げようとして力を入れたが、びくりとも動かなかった。
「ほら」
 振り向いてそう言うので、私は「どけ」と体を入れ替えて、取っ手を握った。さっきと同じように開けようとしたのに、つっかえ棒の芯が入ったように、まったく動かなかった。
「どういうことだ」
京子が胸元の鍵束から、1つの鍵を選び、紐を伸ばして扉についた鍵穴に嵌めた。そして鍵を捻る。
ガコリ、というやけに大きな音がした。
「開けたわ」
その言葉も待たずに、私は取っ手を掴んで扉を開けた。
部屋のなかに足を踏み入れると、暗い部屋の真んなかに椅子はあった。
「『フェレイクシアの恋人』よ」
京子は、友人を紹介するかのように告げた。
さっきと同じ椅子。だけど違う。
椅子に近づこうとして、足を止める。
床が違う。今は普通の絨毯の感触だ。さっきの部屋じゃない。
「明かりを」
京子は言うとおり、入り口のそばにあったスイッチで明かりを点けた。
部屋が明るくなったが、なかは殺風景だった。椅子のほかには、特に目立ったものもない。両方の壁に数点掛かっている地味な絵と、奥のほうに衣装タンスのようなものがいくつか置いてあるだけだった。
椅子に近づこうすると、京子が言った。
「座っちゃ駄目よ。危ないわ」
バカにしたような口ぶりだった。
「この部屋じゃない」
私は踵を返すと、部屋を飛び出した。
そして右隣りにあった、さらに先の部屋の扉の前に立った。
こっちだ。
さっき、トイレのあと探索したときには、階段を通り過ぎたあとに、1つ目の扉に気づかなかったのだ。廊下が暗かったせいで。さっきの違和感は、階段から部屋までの距離がさっきより近かったから感じたのだ。
だからこの、階段から2つ目の部屋の扉が、さっき開けた、鍵の掛かっていなかった扉……。
そんなことを考えながら、取っ手を握った感触に驚く。
動かない。
こっちの部屋も扉に鍵が掛かっている。
唖然として、右を見る。
もう1つ隣りの部屋だったのか?
廊下を先へ進んで次の部屋を探したが、部屋に行き当たらないまま、広間のような場所に出てしまった。
どういうことだ。
やっぱり最初の1つ目の部屋が、さっきの部屋なのか。だったらなぜ鍵が掛かっていのだ。志保は、だれも暖炉の部屋を出なかったと言った。この家にいるのは私たちだけのはずだ。
私が椅子に座ったその部屋を出たあと、だれが鍵をかけたのだ?
暖炉の部屋に戻ったあとは、食堂でケーキを食べるまでずっと5人揃っていた。京子の鍵束のネックレスもずっと首からかけていた。
私は混乱した。
広間に残りの4人がやってきて、私を怪訝そうな顔で囲む。
「どうしたの。山中さん」
志保が心配そうに声を掛けてきた。
「いや……なんでもない」
無理にそう言おうとすると、舌がもつれそうになった。
座ると死ぬ椅子だと?
そんなものに、なぜ私は座ったんだ?
あのとき、立ちくらみがした。全校集会で倒れる女生徒じゃあるまいし、日ごろ体を鍛えているこの私が、なぜそんなタイミングで?
じわじわと気味の悪い感覚が背中の辺りに広がっていく。
だれかに、暗く冷たい場所からじっと覗かれているような……。
「待って、山中さん。あなた、本当に椅子に座ったの?」
この声は、京子か。
私は顔を上げた。そして睨みつけるように京子を見る。
「座ったのね」
心なしか青ざめたような表情で京子は呟く。そして、じっと考え込むような仕草をした。
それからふいに急に口調を変えて、言った。
「さあ、みなさん。もう遅いわ。ご家族が心配なさっているかも知れない。もうお開きにしましょう。今日は私の誕生日会にきてくれて本当に嬉しかった。ありがとう」
有無を言わせない言葉だった。
京子は一方的に、自分で主催をしたこの誕生日会の終わりを告げた。
京子の友人たちは戸惑いながらも「そうね、もう遅いから」などと言って足早に自分の荷物を取りに行った。
志保も強張った顔で頷いている。
帰り支度をしたあと、もう一度京子はお礼を言って、玄関までみんなを見送った。
そして私にだけ言ったのだ。
「山中さんは、気分が悪いみたいだから、もう少し休んでいくといいわ」
私は京子の意図を読み取って、「そうさせてもらう」と返事をした。
志保が心配そうになにか言おうとしたが、「大丈夫だから。帰り道も、もう覚えた」と、私はあえて突っぱねるように言った。
悪いな。ここからは、私と、こいつの時間だ。
玄関から出て行く3人を見送って、私と京子は館のなかに戻った。
「で、どういうことなんだ」
「……」
京子はなにかを隠している。そしてなにかを恐れているようにも見える。
どちらも信用できないが、鍵の掛かった部屋だけは本当に存在していた。
「紅茶を淹れるわ」
京子はそう言って食堂へ戻った。私もついていく。
だだっ広いテーブルの端に座っていると、いい香りを漂わせながら、2つのカップが目の前に置かれる。
なんだ。うまいな。一口ごとに緊張がほぐれていくような気がする。
しばらく2人とも無言で紅茶を飲んだ。
そうして私たちは、ほぼ同時にカップを置く。
「私の祖父には2人の妹がいたの。大叔母、ということになるのかしら。2人とも大人になる前に亡くなっていて、私もお会いしたことがないけど。その2人は双子で、見分けがつかないくらい似ていたそうよ。たぶん一卵性双生児だったのね。でもその双子は、性格は正反対で、おしとやかと活発。そのせいか、いつも喧嘩ばかりしていたそうなの。2人が病気で亡くなったあと、そんな妹たちのことを偲んで、祖父が、彼女たちが住んでいた部屋に、ある仕掛けをしたのよ。今でも私たちは、『双子の部屋』と呼んでいるわ。祖父はからくり細工が好きで、そんないたずらが、この家の色んなところに残っているの」
「なんだ、その仕掛けって」
「他愛ないものよ。2人の住んでいたそれぞれの部屋の鍵を、連動させたの。片方が開けば、もう片方が閉じる。片方を閉じれば、もう片方が開く。つまり、2つの部屋の鍵は、どちらかが必ず開いていて、もう片方は必ず閉まっているの」
「なんだその悪趣味な仕掛けは」
「部屋のなかはそっくり同じ。でも扉だけが反対なの。祖父は容姿が瓜二つだったのに、性格が正反対だった双子の妹と、その部屋を重ね合わせたのね」
金持ちの考えることは本当に意味がわからない。退廃的な匂いがして、気持ちが悪い。
「待て、それがあの階段の先の2つの部屋か」
「そうよ」
階段の先にあった1つ目の部屋は、京子が開けようとして鍵が掛かっていた。だったら、そのとき右隣にあった2つ目の部屋は、鍵が掛かっていなかったんじゃないか?
京子が鍵を開けて、私たちが部屋のなかに入ったとき、隣の部屋の扉は連動する仕掛けのために、逆に鍵が掛かった。
そうか。だから1つ目の部屋を出て、隣の部屋の扉を開けようとしたとき、鍵が掛かっていたんだ。
京子が1つ目の部屋の鍵を開けたとき、やけに大きな音が響いたのはその連動する仕掛けのせいか。
だったら、私が椅子に座ってしまったあの部屋は、やっぱり2つ目の部屋だ。私たちが京子の手料理を食べている間もずっと、鍵が開いたままだったのだから。
なにが、『そんな椅子がある部屋なのよ。戸締りには気をつけているわ』だ。
「椅子は2つあったんだな」
そう問い掛けると、京子はゆっくりと笑みを浮かべて言った。
「ええ。そう。『フェレイクシアの恋人』は、まったく同じ2つ揃いの椅子なの。椅子職人の好きだった幼馴染が双子だったから、それにちなんで作られたそうよ」
双子。また双子か。そして、それは……。
「あなたも、双子よね。妹は、まひろさんとおっしゃったかしら」
「だったら、なんだ」
「椅子は、あなたを呼んだのかも知れない」
京子は妖しい微笑みを浮かべる。
座ると死ぬ椅子にか。悪い冗談だ。
「鍵が連動してるなら、必ずどっちかの扉は開いてるってことだろう。そんな部屋に、座ると死ぬ椅子なんてものを両方置くなんて、なにを考えているんだ」
性格が悪いにもほどがある。
ようやく、こいつの本性が見え始めた。
「そんな危険なことはしないわ。確かに、2つの部屋それぞれに椅子は置いてあるけど、間違って座ってしまわないように、安全策は講じているし」
「どこがだ。現に私は……!」
「座ったの?」
また、京子が緊張した顔つきになった。
「あの椅子は本物よ。この家に来てからも、3人死んだわ。パパの従姉妹と、使用人と、そして…… 私の母。座った順に死んでいった」
なんだ、その表情は。やめろ。私も。私も……。
座ったんだぞ。
「案内するわ。来て」
京子は立ち上がった。食堂を出て行くので、仕方なくついていく。
また薄暗い廊下を通って、中央館から別館のほうへ向かう。同じ道順で階段の前を通り、そして双子の部屋の前にやってきた。
「こっちの、左の部屋にはいつも鍵を掛けているの」
さっき部屋を出たときにも、ちゃんと閉めたらしい。
京子はガコガコと取っ手を揺すって見せている。
「じゃあ、右の部屋の鍵はいつも開いてるんだろう。そっちにある椅子はどうするんだ」
「ええ、危ないわね。だから、大丈夫なようにしてあるの。バズビーズ・チェアと同じように」
なに? なんだそれは。
私たちは双子の部屋のうち、右側の部屋の前に進んだ。
さっきは左の部屋の鍵を開けたせいで、連動して鍵が掛かってしまったので、こっちの部屋は結局扉を開けていない。
けれど、トイレの帰りに私が迷い込んだのは、間違いなくこの部屋だ。
「言ったでしょう。サークス博物館に展示されているバズビーズ・チェアは、調子に乗っただれかが座ってしまわないように、こうしてるって」
京子は鍵の掛かっていない扉の取っ手を掴むと、サッと開け放った。
そして壁際のスイッチを点け、部屋に明かりが灯る。
私は目の前に広がる光景を、信じられなかった。
呆然として、口が利けない。
絨毯の敷き詰められた床には、なにもない。
天井に、椅子が張り付いている。重力に逆らっているかのように、天井を床にして逆さに据えられているのだ。
「なんだこれは」
ようやくそんな言葉を搾り出した。
「博物館のバズビーズ・チェアは、天井から吊るしてあるだけらしいけど。うちは気軽に触ることさえできないように、天井に逆さまに打ち付けてあるの」
日本家屋と比べてはるかに天井が高く、そこに打ち付けられた椅子には、たしかにジャンプでもしないと触ることはできない。
しかし……。
「本当にあなたは座ったの?」
京子がそう訊ねてくる。疑っているのではない。まるで、なにか得体の知れないものを、恐れているかのような表情だった。
空間がぐにゃりと歪むような錯覚があった。
自分が今立っている場所が、ふいにひどく不安定なところのような気がして、立ちくらみがした。
「椅子が、あなたを呼んだのね? そうでしょう」
馬鹿な。
そんなこと、あるはずがない。天井に逆さまに打ちつけられた椅子に座るなんて。
「やっぱり隣の、1つ目の部屋か。私がさっき入ったのは。どんな細工をしたんだ」
2つの部屋の扉の鍵が連動している、なんていう妙な仕掛けがあったんだ。他にもなにか仕掛けがあるに違いない。私が部屋を出たあとに、勝手に鍵が掛かったと考えるほうが、天井の椅子に座ったなんていう現象より、ずっと現実的だ。
「いいえ、ほかに仕掛けはないわ」
「うそをつけ。あんなところにある椅子に、どうやって」
激高してそう喚きかけた私の目に、奇妙なものが飛び込んできた。
椅子の足の少し手前。天井に変な模様があるのだ。
天井には、壁紙というのか、パネルというのか、柔らかそうなシートがその一面を覆っている。その絨毯のような見た目の綺麗なシートに、荒れているような跡があった。それも、入り口から、椅子の足までの間に伸びている。
あれは……
私は口を押さえた。叫びそうになったのを必死にこらえたのだ。
足跡だ。
わたしの。
天井に、私の足跡がついている。
あの椅子に座るときに、やけに床の感触がおかしいと思っていたのは、そのせいなのか。
京子も、私の視線の先を見て、目を見開いて驚いている。
「出ましょう」
動けなくなっていた私を、京子が肩を貸すようにして歩かせる。
ふらふらしながら、促されるままに歩き続けて、私たちは中央館のほうへ戻った。まるで逃げるように。そして中央館のなかほどにあった大きな階段を上り、奥まったところにある1つの部屋に入った。
「離せ。もう歩ける」
京子の手を振りほどいて、近くにあった椅子にドシンと腰を下ろした。
「ここは私の部屋よ。落ち着いて」
京子はそう言って、部屋の明かりをつけた。
広い部屋だった。高校生の女の子が住む部屋とは思えない。殺風景だとか、そういうことではない。部屋の壁際に、大きな柱時計がこちらを取り囲むように並んでいたのだ。その数は10や20ではなさそうだ。
今度はなんだ。もういい加減にしてくれ。どっと疲れたような気持ちになって、深く息をついた。
「暖房をつけるわね」
京子は部屋の隅にあった、古そうな暖房器具らしいものにスイッチをいれた。
「なんだこの時計の墓場は」
自分でそう言ってから、気がついた。よく見ると、どの時計も動いている気配がなかった。それどころか、指している時刻がどれもバラバラなのだ。
 壁に掛かっているものもあるが、ほとんが、その胴体に大きな振り子を抱えた、床に据え置くタイプの柱時計だった。
昔の映画のなかでしか見ないような代物だ。
それらが整然と、ひっそり立ち並んでいる光景は、まるで墓石の群のように見えた。
「アンティーク時計よ。子どものころから好きで、パパにねだって集めたの」
京子は勉強机らしきものの前にあった椅子に座って、こちらを向いた。
「人の作ったものは、いつかみんな死ぬ。時計にとっては、針が動かなくなるときがそうね。人の作った機械が、人の見ていない、だれもいないところで、ひっそりと死んでいく。形ある無生物の死を、生物のそれのように定義づけることは難しいわ。でも私は、時計の死の潔さがとても好き」
そう言って、視線を正面の一際大きな柱時計に向ける。
ガラス張りの胴体の向こうに、長い振り子が幾本か覗いている。上部にある時計部分には、豪華な装飾が施されていたが、短針と長針は張り付いたように2時半を指していた。
「自分が死んだ時間を、指している」
ハッとした。
その京子の声の響きが、とても心地よかったからだ。こいつの言葉は、蠱惑的だ。
「いつまでも、自分の死んだ時間を指し続けているのよ。どの時計も、すべて。なんだか、美しいと思わない?」
退廃的だ。没落したかつての子爵家という血筋と、この館の古びた空気がこんな娘を育てたのか。
私は、この女の作り出す妖しい空間に取り込まれないように警戒心を強める。
「あの椅子は、本物なのか」
「ええ。本物よ。この家で起きた3つの死も」
ただ……
京子は言いよどんだ。
「ただ、なんだ」
「フェレイクシアに、恋人と見初められた人間は、今までに何人いたかしら。座ってしまっても、全員が全員死んだわけではないわ。この家でも、パパは新しくきた家政婦には、必ず座らせていた。もちろん、なにも説明しないでね」
最悪だ。こいつの父親は。
「でも、死んだのは1人だけだった。若くて、とても綺麗な人だったそうよ」
「私なら、大丈夫だといいたいのか」
「そんなことないわ。あなたは綺麗よ。たぶん、自分が思っているよりも、ずっと」
虫唾が走った。こいつにそんなことを言われたくない。
「椅子の呪いは不安定ね。人が移り気であるように」
そう言ったあと、京子はふいに鍵束を掴んだ。
「あなたが入って、そして椅子に座った部屋は、本当は左の部屋だったのかも知れない。あとで掛かっていた鍵のことは私にもよくわからないけれど。この家では、不思議なことがときどき起こるから」
「持ち主も把握し切れてない、カラクリ細工だらけだってのか。でも椅子が床にあるほうの部屋だったとしても、私が椅子に座ったのは間違いないんだ」
どうしてくれる、と言いそうになって、それはこらえる。
すると京子は変なことを言うのだ。
「言わなかったかしら。左の部屋の椅子は、レプリカなのよ」
なんだと? 聞いてない、そんなことは。
「パパのガールフレンドに椅子の話をすると、怖いもの見たさでどうしても座りたがるから、そっくりに作ったレプリカのほうで満足させてあげていたそうよ」
「ちょっと待て。だったらなぜ、そのレプリカの部屋のほうに必ず鍵をかけていたんだ」
「ほかに大事なものを置いているからよ」
「大事なもの?」
左の部屋にあったものを思い出してみる。
たしか洋服箪笥のようなものと、小さな地味な絵がいくつかあっただけだ。私がそう言うと、京子は「そんな風に言われると、レンブラントがかわいそうね」と笑った。
そう言えば、右の部屋には天井の椅子以外、なにもなかった気がする。
「だったら、椅子が2つ揃いだと言ったのはウソか。椅子を作った変態野郎の幼馴染の双子の話も?」
そうか。双子の話に持っていったのは、私にあてはめるためか! そもそもなぜ、こいつが双子の妹、まひろのことを知ってるんだ。
一方的に男に片思いされて、知らないうちになにもかも調べられる女性の気持ちが、わかった気がする。気色が悪い。
そう思って鳥肌を立てていると、京子は首を振った。
「椅子は2つ揃いよ。フェレイクシアの双子の幼馴染への執着の話も本当」
「だったら、もう1つの椅子はどこにあるんだ」
そう怒鳴ってから、体の中に嫌な予感が走った。
こいつ……
私から、その言葉を引き出したな。
汗が皮膚の上に湧き出てくる。自分が座っている椅子の感触が、艶かしく躍る。
部屋に入ってきたあと、無意識に腰掛けたこの椅子は、どんな形をしていた?
思い出そうとしても、思い出せない。自分の体を見下ろそうとしたが、首の油が切れたようにうまく動かなかった。
京子は笑って、立ち上がった。
「私が愛用しているわ」
京子のドレスのスカートがそこをどくと、座っていた椅子が見えた。見覚えがあった。同じ椅子だ。
なんてやつだ。
私は唖然として固まった。
こいつは、やっぱり普通じゃない。
「椅子の呪いも、弾くことは可能よ。私と同じ場所に、あなたも来ることができる」
京子はそう言って、こちらに右の手のひらを伸ばした。
弟子を導く、教導者であるかのように。
「願い下げだ」
とっさにそう言い返した。
「そう」
京子はさほど残念そうでもなく、伸ばした手を下ろす。そしてまた、あの椅子に腰掛けた。平然と。
「今この街で、途方もなく大きな呪いが蠢いているわ」
こちらを見るでもなく、京子はひとり言のように淡々と語った。
「目に見えない、とても邪悪ななにかが。……いったい、なにが起ころうとしているのかしら。私は、見届けたいと思っているの。この街の、未来を」
京子は指を交差させ、その上に顎を乗せた。前にも見たことがある。無意識にする仕草なのかも知れないが、彼女の意思の形を表しているかのようで、とても似合って見えた。
沈黙が降りた。
無数にある時計から、時を刻む音はなにも聞こえない。
すべてが古い灰につつまれていく。石化していくような時間だった。
やがて私は腰を上げた。
「帰るの」
「ああ」
「今日はありがとう。来てくれて」
「……誕生日、おめでとう」
今日、まだ一度も言っていなかったような気がして、そう言った。
「ありがとう」
京子はふっ、と息を漏らした。

それから玄関まで送ってもらって、外に出た。
あの椅子のある別館のほうが気になりはしたが、意地でも振り返らなかった。もうなにが本当で、なにが嘘なのかわからない。
すっかり遅くなってしまった。さすがに親に怒られるかも知れない。
空には一面の星空が輝いていた。私の住む市街地から少し離れたせいか、街の明かりが少なくて、その分、星がよく見える。
ふと思いついて、玄関に立っている京子を振り返った。
「お前、さそり座生まれだよな。さそり座の女って、歌になるくらい酷い言われようだけど、お前に関しては当たってると思うぞ」
それを聞いて、京子は露骨に不快そうな顔をした。
「お前のホロスコープを確認してみたけど、お前が生まれた瞬間に、東の地平線にあった星座は、やっぱりさそり座だったよ。上昇宮って言うんだ。お前の本質を表しているのが、それなんだ」
やりかえしてやった。
単純に、そう思って気が少し晴れた。すると京子は、「くだらない」と言ってため息をついた。
「お前、占いが好きなのに、どうして占星術は嫌いなんだ」
私よりはるかに色々な占いに長けているのに、どうしてなんだろう。素直にそう思った。
「そうね」
京子はそう言って星空を見上げた。
つられて私も空を見る。
「私が子どものころ、夜にこうして庭に出ていたの。そばにはだれもいなかったわ。みんな家のなかにいた。私だけ外で、そのとき庭にあった木馬に乗っていた。なぜそうしていたのか覚えていないわ。パパに怒られて拗ねていたのかも。何時くらいだったのかしら。急に地面が揺れたのよ」
「地震か」
私は、自分が子どものころに経験した地震のことを思い出そうとする。しかし、あまり記憶に残っていない。
「すごい揺れだった。地面がひっくり返るかと思うくらい。木馬から転げ落ちて、私は泣き叫んだわ。痛かったし、強かった。おうちも揺れていて、今に崩れ落ちそうだった」
そんな大きな地震があったか? 私の家も同じ市内だというのに、まるで思い出せなかった。
「揺れが収まって、私は泣き止んだ。家に入ろうとして、立ち上がったとき、奇妙なことに気がついたの」
京子は空を指さした。
「星の配置が変わっていた」
冗談めかしたような言葉だったが、その声は緊張を帯びたようにかすかに震えていた。
「空の星が、すべてでたらめな形に変わってしまっていたのよ。目を擦ったわ。でも見間違いじゃなかった。私は星が好きな子どもだったの。星座の本を片手に、夜空を見るのが好きだった。遠く離れた星ぼしを結びつけ、古来から人々がつむぎだした物語を空に浮かべて、夢想するのが好きだった。なのに、その夜、たった一度の地震のあと、そのすべてが狂ってしまったのよ。私は怖くなった。いったいなにが起こったのかわからなくて、また泣いてしまった。そして家に帰って、パパに抱きついたの。地震のせいで空が揺れて、星がずれてしまった。そんなことを口走ったと思うわ。なのに、パパは私の頭を撫でてこう言ったの。『大丈夫。地震なんて起きていないし、一晩寝れば空も元通りになるよ』って。泣く子どもをあやす言葉でも、ちょっとおかしいと思わない? 空の星のことはともかく、地震が起きてないって言うなんて。でもそれは、その言葉の通りだった。地震は起きていなかったのよ。次の日、だれに聞いても、友だちに、先生に、道行く大人に聞いても、だれ1人、地震のことを覚えていなかった」
京子は力なく笑った。
私は背筋がゾクゾクとしていた。なぜだろう。子どものころの、荒唐無稽な話なのに。
「次の夜も、その次の夜も、星の形は変わってしまったままだった。太陽や月、火星や土星……太陽系の星はそのままだった。でも遠くの星は、どれも似ても似つかない配置になってしまっていた。なのにそれを、だれも不思議に思っていなかった。あの地震と同じように、みんなの記憶まで変わってしまっていたの。街の本屋で星座の本を買ったわ。どの頁にも、私の見たことのない星座がちりばめられていた。怖かった。怖くてたまらなかった。私が……私だけが、別の世界に紛れ込んでしまったみたいで」
それは、本当なのか?
そう訊こうとして、ためらわれた。あまりに真摯な声と、表情だったから。
「黄道12星座も変わってしまっていたわ。計算尺座も、大猫座も、帆掛け船座も、なくなっていた。あの可愛いねずみ座も、気高い銃士座も。みんなみんな。うお座やてんびん座はあったわ。でも似ても似つかない形になってしまっていた。クルミ座はどこにいったの? 大きく手を広げた山猿座はどこに? あの、全天を睥睨する13の赤色巨星の群、魔王座は……?」
京子は早口でそう捲くし立てると、そこで息を止め、ゆっくりと吐き出した。
「雑誌で星占いのページを開いても、私はどこを見ていいかわからないの」
京子はこちらを見て笑った。泣いているような笑顔だった。
私はそのとき初めて京子の心に触れたような気がした。
「お前の本当の星座は……」
くじら座よ。
あのとき、冗談だと思った言葉が脳裏に蘇る。
京子ははにかむように俯いた。そして、もう空を見なかった。
一面の星空の下で、私はなにか謝る言葉を探していた。けれど、それは余計なことのようにも思えた。
そのかわりに、京子の胸元を指さした。鍵束の首飾りを。
「それ、変だぞ。いくつ部屋があるのか知らないけど、マスターキーを作ったほうがいいよ」
照れ隠しだった。あまり深い意味もなく、最初から思っていたことを口にしただけだった。
京子は自分の胸元を見下ろして、少し気を緩めたように微笑んだ。
「パパはマスターキーを使っていたけど、私はこっちのほうが好きなの」
「変わったやつだ」
笑ってやった。少しでも救われればいいと思って。
すると、京子は玄関口に立ったまま、鍵束を右手でチリンと鳴らして言った。
「マスターキー…… 本当の意味で、『支配者の鍵』と呼べるものはそんな即物的なものではないわ」
「なんだそれは」
「たとえば……」
京子は、目を閉じてゆっくりと言った。
「ひらけゴマ」
その瞬間、京子の背後、玄関の向こうの館のなかから、体に響くような音が聞こえてきた。
ガガコン……。
鈍く響く、重層的な金属音だった。まるで無数の扉の鍵が、いっせいに開いたような。
私は慄然として、耳に反響するその音の意味を考える。
京子は目を開き、私をまっすぐに見つめた。
「気をつけて帰ってね」
なんなんだ、こいつは。
今のは、祖父が作ったという仕掛けなのか。それとも……?
全身に鳥肌が立ったまま、私はその館を後にした。まるで逃げるように。
帰り道、京子の言っていた、星の配置が変わったという話のことを考えた。子どものころの荒唐無稽な記憶だと、笑い飛ばすのは簡単だ。ディティールが細かすぎるのが気持ち悪いが。
けれどそこには、あいつがあいつである、その根源を垣間見た気がする。
あいつは自分を異邦人だと言ったのだ。
1人なんだ。
そうか。
クラスで取り巻きたちに囲まれていても。誕生日会で、ハピバースデーと歌ってもらっていても。
そのことが、ストンと胸に落ちるようにわかった。
そして私は、彼女の部屋で、まっすぐに差し出された手のことを思った。私が握り返さなかった、あの手のひらのことを。

(完)

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