2ちゃんねる発の怖い話「師匠シリーズ」をまとめます。
『馬霊刀』 3/4
- Pixiv
- 3 犬神人
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鳥井家の敷地を出たあと、師匠は興奮気味に言った。
「おい。あのじじい、なにか知ってるぞ。大当たりだ。イヌジニンの昔の『仕事』がそんなにセンシティブなら、教えてくれた宮内先生が警告したはずだ。それがあんな過敏な反応をするってことは、なにか、それがセンシティブになる事情が、あのじじいの側にあったってことだ」
じじい、じじいと失礼なことを連呼しながら、師匠は自転車を運転する僕の肩を、後ろから嬉々として掴んだ。
「鳥井流の門弟じゃない。家族だ。犬神人は、技ではなく、血で受け継ぐ。あのじじいの心当たりは家族のだれかだ。今の住民票には、それらしい年齢の女子がいない。戸籍だ。戸籍を調べるぞ」
「僕、お金持ってないですよ」
師匠はチッと舌打ちをすると、ホットパンツのポケットから小銭入れを取り出してなかを確認した。
「よし。出張所だ」
師匠は市役所の窓口では面が割れつつあるらしく、こういう他人の戸籍を手に入れるような裏技を使うときには、出先機関の窓口を利用するようにしていた。
1時間半後、小さな公園のベンチで、僕らは人様の戸籍や住民票の写しを覗き込んでいた。当代である、鳥井博一に連なる一族のなかで、僕らの追っている『弓使い』と年齢的に合致する女性が1人だけいたのだ。
「山田、あすみ」
師匠が確かめるように言った。
山田あすみは、鳥井博一の長女、真佐子の一人娘だった。真佐子は博一の長男、正太の妹で、23歳のときに同じ市内に住む山田喜市という男に嫁いでいる。別の出先の窓口で、山田喜市の住民票を取ってみたら、父・喜市、母・真佐子、長女・あすみという3人世帯だった。念のため戸籍謄本も取ってみたが、子どもはこのあすみ1人だった。
22歳、女。鳥井博一の孫ということになる。あの、道場での過敏な反応は、この孫のあすみを守るためだったのか。
「山田、あすみ」
師匠はもう一度繰り返した。そしてなにかに気づいたように顔を上げた。
「もしかして」
師匠は戸籍や住民票の写しをかき集め、リュックサックに放り込むと、「事務所に行くぞ」と言った。
自転車で向かっていると、途中で「いや、あれは結構前だな。小川調査事務所ができるよりも前か」と言い出し、「パパ殿の事務所に行くぞ」と方向転換を強いられた。
小川所長の義理の父である、高谷氏が運営するタカヤ総合リサーチにつくと、さっそく師匠は市川さんというベテランの女性事務職員をつかまえた。
「古い新聞記事? いいわよ」
市川さんは、師匠のお願いをたいてい聞いてくれる。娘のような年の師匠を気に入っているのもあるのだろうが、高谷所長からできるだけ便宜を図るように、という指示がでているようだった。それはこの業界でも特殊な、オバケ事案を得意としている師匠を、いずれ引っ張りたい、という思いのためなのか。あるいは、娘婿である小川所長のところの調査員なので、塩を送っているのか、どちらかであろうと思われた。師匠もそうしたことを委細承知で、利用できるものはなんでも利用しようとしていた。
「いつぐらい? どんな記事?」
市川さんは、過去の記事を収めたキャビネットの端に差してあった、目次集のようなファイルを捲りながら訊ねた。
「7、8年くらい前。誘拐された女の子が、地下室に監禁されてた事件」
「……あった。たぶんこれね。ええと、このファイル」
市川さんはあっという間に、師匠が探していた記事を見つけ出した。
すごいな。小川調査事務所で、似たようなものを作っている僕だったが、さすが大手興信所はレベルが違う。
記事は、8年前のものだった。さらにその5年前に誘拐された少女が、地下室に監禁されていたのを発見され、救出された、という内容。
犯人と思われる男は、武藤仁志38歳。会社員。武藤は母親と2人暮らしであったが、息子の姿が見えないことを不審に思った母親が、武藤の私室となっていた地下室を探したところ、地階に下りる入り口が土砂で埋まっていたという。すぐに救急隊が駆けつけ、武藤は土砂のなかから心配停止状態で発見された。のちに病院で死亡が確認されている。土砂を取り除いて、地下室のなかを確認すると、やせ細った少女がいた。本人の供述から、少女は同じO市内で行方不明者届けが出ていた、山田あすみ、14歳であることがわかった、という。武藤の母親は、息子が地下室で少女を、5年間にもわたって監禁していた事実を知らなかった。武藤家と山田あすみとの関係はわかっていないが、面識はなかったものと思われることから、誘拐については、たまたま目についた少女を攫ったものかも知れなかった。
「山田あすみ。やっぱりだな」
師匠は記事を読みながら頷いている。凄いな。よく名前だけでこの事件を覚えていたものだ。
そう感心していると、師匠は「これ、不気味な事件だったから覚えてたんだ」と言う。
「たしか、地下室の入り口を埋めていた土砂が、どこから来たのか、わからなかったんだよ。家は一軒屋だったけど、両隣にも民家はあるんだ。土砂はかなりの量だったから、重機で運び込まれたはずなんだけど、そんな事実を周辺住民は確認していない。武藤の死因は窒息死だったはずだ。状況から、なにものかに生き埋めにされて殺された可能性が高かった。母親が取り調べられてたけど、嫌疑不十分で立件されず、最終的に武藤は事故死で片付けられたんじゃなかったかな」
監禁。犯人は死亡。凄い事件だ。5年間ということは、9歳のときに誘拐されて、14歳になるまで、社会から強制的に切り離されて暮していた、ということか。
こんな惨たらしい事件の被害者が、本当にあの鳥井博一老人の孫なのか。それも、師匠が追っている弓矢を使った連続通り魔事件の犯人だと?
監禁されていた少女の両親の名前や、住所は、書いていなかった。
「同姓同名の可能性は」
僕がそう口にすると、師匠は、「目だよ。おまえがバス亭で会ったっていう女は、右目が潰れてたんだろ」
「そうですけど」
「この記事には書いてないけど、私の記憶だと、救出された少女は怪我をしていたはずだ。詳細を書かない、いや、書けないような怪我だったとすると……」
「目が?」
「14歳の女の子だ。記事でも、そんな重い怪我については、配慮されたかも知れない」
ハローページで、僕らが住民票を取った、山田あすみの家の電話番号を調べると、『山田製作所』という表記になっていた。電話をしようとしたが、鳥井家のように、山田あすみの存在が、センシティブなものになっている可能性があった。師匠は、「アポなしで乗り込むか」と言った。へたに事前に電話して、警戒されるよりいいかもしれない。
気がつくともう夕方だった。師匠は、タカヤ総合リサーチのロッカーに置かせてもらっている服に着替えた。控えめなパンツスーツだった。今回の訪問にホットパンツはさすがにまずい、という判断なのだろう。
僕らは市川さんにお礼を言って、ビルを出た。
急いで自転車をこぎ、山田製作所の住所へ向かう。市内南部の、人口密度のゆるやかな地域に、その町工場はあった。
ギイーン、という金属が削られるような音が響いてくる入り口を抜け、僕らは事務所を訪問した。
「あすみはもういませんよ」
突然の訪問に戸惑いながらも応対してくれた男は、汗で濡れた額を手ぬぐいで拭きながらそう答えた。
この町工場『山田製作所』の社長、山田喜市は鳥井博一の長女、真佐子と結婚して22年前に1人娘のあすみを授かった。そして今から13年前に、そのあすみを武藤という見ず知らずの男に誘拐され、5年間も人目のつかない地下室で監禁される、という非道な事件に見舞われている。
「もう4、5年前に、あれが娘をつれて家を出てね」
パイプ椅子がキイキイと軋む音がする。山田喜市は、イライラした様子だった。
「あれ、とは奥様の真佐子さんですか」
「ああ」
師匠は、市の嘱託を受けた、犯罪被害者の心のケアをする支援員を名乗った。特に身分証の類も用意してなかったのに、あるのかもわからないそんな仕事の内容と意義を、ペラペラとしゃべり倒し、最初の壁を突破していた。たぶん、何度か使ったことのある肩書きなのだろうが、よくもまあ、と感心する。なお、お揃いの阪神の帽子は、師匠のリュックサックのなかに仕舞っていた。
山田あすみは、母の真佐子につれられて家を出ていき、父とは別居状態なのだという。
住民票はそのままだったので、離婚はしないつもりなのだろうが、それだけ別居が長いというのは、もう家族関係は完全に決裂しているのかも知れない。
喜市ははっきり言わなかったが、暗に別居の原因を、妻の真佐子の方の浮気だとほのめかした。
「あすみさんは、事件のあと学校は?」
「……小学校3年でかどわかされて、だからな」
「行かなかったんですか」
「いや、特別支援学校だか、そんなところに行ってたけど、途中でやめちまった。……行ってたのは2年くらいだったか」
「それからは、自宅にいたんですか」
「ああ」
山田あすみは、16歳くらいで学校教育から離れたということか。結局、小学校3年間と特別支援学校2年間、合わせて5年しか学校に行っていないことになる。その歯車が狂ったのは、すべて誘拐の被害者になったせいだった。彼女のせいではなかった。
僕は、一度だけ見た、あの強い意思を秘めた顔を思い出した。右目が無残に潰れていたけれど、それでもどこか触れがたい気高さを持っていたような気がする。
社会に復讐をしたいのか?
僕は、師匠とあすみの父が話しているその横で、記憶のなかの女に話しかけていた。
きみは、憎んでいるのか。きみの人生を壊した男を。その男のように、雑貨店の女性客を監禁して襲った緒方を。ほかのやつらもそうなのか。弓矢で襲撃された被害者たちは、当日の外出目的がはっきりしない。同じように、犯罪をおかそうとしていたやつらなのか。
きみは、いまどこにいる?
「あすみさんは、お祖父さんの弓道場には通われていたのですか」
僕は師匠の言葉にハッとした。
「子どものときはな。かどわかされてからは、行ってない」
師匠はその言葉が本当かどうか、吟味するように父の顔を見ていた。
「あと、事件のときに目を怪我されていた、ということですが」
「ああ」
喜市はそう言って、右目を押さえるように覆った。それから、ため息をついて、
「……不気味な、子だった」
と、いう呟きを漏らした。
「あのー、社長。ちょっといいですか」
事務所の入り口に、ニキビの浮いた顔の作業着の若者が立っていた。
気がつくと、金属を削るような音が止まっている。
「おお、いま行く。悪いな。そういうことだ。あいつは、もううちには、いないんでね」
そう言って喜市は、これを幸いと、僕らを追い出しにかかった。
「訪問しないといけないので、別居先だけ、教えていただけませんか」
師匠がそう言って食い下がって、いま母子が住んでいるアパートの住所を聞き出すのがやっとだった。
事務所の奥が自宅になっているようだったので、師匠的には、本当に山田あすみがいないのか、その痕跡でも探りたかったところだったようだが、しかたがなかった。
山田喜市は、ウソをついているようにも見えなかった。しかしなにか、肝心なことを言っていないような気配も感じた。
町工場を出ると、もう日が暮れかけていた。
「続きは明日にするか」
師匠がそう言った。
「山田あすみだと思いますか」
僕は弓を引く仕草をしながら、問い掛ける。
「たぶんな」
師匠は背中を丸めながら、答えた。その様子に、連続通り魔事件の核心に迫っている、という興奮はなかった。
「不気味な子、か……」
師匠はぽつりと、父が漏らした言葉を繰り返した。その背中には、静かな怒りが漂っているような気がした。
町工場からは、金属を削るような音が、また聞こえ始めていた。
◆
続きは明日にするか、と言ったものの、帰る途中で師匠が「いや、やっぱり今から行こう」と言い出した。
「探していることが、バレるかも知れない」
山田あすみの人生に同情的になっていたが、もし彼女が『弓使い』だとしたら、たしかに今の状況は危険かも知れない。
邪魔をするな、と警告されているのだ。すでに何人も死傷させているであろう、危険人物から。
「行くぞ」
別居先の住所をメモした紙を握り締め、師匠は僕の肩を叩いた。
目的地は市内の中心部に近かった。その古い木造2階建てのアパートにたどり着いたときには、もう日が暮れていた。
ギシギシと軋む階段を登り、2階の奥の部屋のドアをノックする。
「はぁい」
なかから返事があった。女性の声だ。師匠がドアの開く右側に立ち、僕は左側に控えた。そして顔を見合わせて頷く。担いでいたバットケースは、両方とも僕の足元に置いていた。僕は片方のケースのチャックに手を突っ込んで、金属バットのグリップを握り、いつでも師匠に渡せるよう
に身構えていた。
緊張で手のひらに汗が滲んでいる。
ガチャリとドアが開き、なかから中年女性が顔を覗かせた。
「なに?」
女性は肌着を身につけ、上にはなにも羽織っていない。化粧っ家のない顔の頬には、シミが浮いていた。
「市の嘱託を受けまして、犯罪被害者の方の心のケアをするために訪問させていただきました。本日、山田あすみさんはご在宅でしょうか」
師匠は、山田製作所のときと同じ設定で挑んだ。
女性はじろじろとパンツスーツの師匠の全身を見回し、それからドアの陰に僕がいるのに気づいて、一瞬ビクリとした。
「どうも」
僕はできるだけニコヤカに会釈した。壁に立てかけたバットケースからは手を離していた。
「入って」
思いのほか、あっさりと女性は僕らを部屋のなかに招き入れた。山田あすみがいるとも、いないとも言わなかった。
室内は、ゴミ屋敷というほどではないが、スーパーの袋や弁当の食べガラなどが散らかっていて、汚らしい印象だった。
六畳間には、その女性以外だれもいなかった。
「あすみは、いないわよ」
女性は畳の上に座り込み、目の前の背の低いテーブルから、タバコとライターを手に取った。
「真佐子さんですね」
「そうよ」
あすみの母、真佐子は煙を吐きながら言った。
「あの子はね、出て行っちゃったの」
どこか他人ごとのような言葉だった。僕はこの女から、普通ではないものを感じていた。見ず知らずの僕らを家にあげながら、彼女は着替えるでもなく、肌着のままだったのだ。
「どっかに男でも作ったのかねぇ」
いい子だったのに。
そんなことを言ってニタニタと笑っている。
「出て行ったのは、どのくらい前ですか」
「もう2年くらいかなぁ」
「2年……」
娘がいなくなって、2年間も放っているというのか。父親の喜市は知っているのだろうか?
子どものころに誘拐され、5年ものあいだ地下室に監禁されて、救出されてからも学校にもほとんど行かず、両親は別居。そして顔にも酷い傷を負っている、そんな子が、1人でどこかに出て行った、というのに、この親は……。
僕は理不尽な思いに、怒りが湧いてきた。握り締めた手に力が入る。すると師匠が僕の目を見て、眉間にシワを寄せた。抑えろ、というのだろう。
「こちらに来てからは、あすみさんはどんな様子でしたか」
「あの子は昔から、物静かでねぇ。いつもひとりでお人形遊びとか、積み木遊びとかをしてたのよ」
「こちらに来たのは、17、8のときですよね。2年前ということは、20歳くらいまでいらっしゃったんでしょう?」
「……いつも、なにしてたのかねぇ。あたしもそのころは、働いてたし」
「住民票は、喜市さんの家のままですよね。ということは、失礼ですが、生活保護は受けられないでしょう。いま生活はどうされているのですか」
「まあ、旦那からの仕送りもあるし」
もごもごと真佐子は言った。
その仕送りは、娘にも権利があるはずだ。父親も父親だ。同じ市内に住んでいたのに、自分の娘がいまどこにいるのか、知りもしないで、仕送りだけ送っているのか!
僕は怒りを抑えながら、口を開いた。
「こちらに来てから、お祖父さんの道場へ通っていた、ということはないですか?」
ここからなら、鳥井家にわりと近い。
「ああ、行ってたかもね。あの子は弓道が上手でねぇ。あたし、大会に出たらいいのに、って言ったけど、おじいちゃんがダメだって言うのよ」
「それは、小学生のときですか」
と師匠が訊くと、真佐子は首を振った。
「ナントカ学校に通ってたころよ」
「特別支援学校ですか」
「そう」
「お祖父さんは、どうしてダメだって、言ったんでしょうか」
「変な子だから、外に出したくなかったのかなぁ。いい子なのに」
変な子。父親は、「不気味な子」だと言っていた。あんな辛い目にあっても、弓道を頑張って続けていた子に、そんな仕打ちはないだろう!
僕の怒りの矛先は、あの道場で会った、厳しい老人にも向かった。
「こっちの目は、完全に見えないのですか」
師匠は、右目を触りながら訊ねた。すると、真佐子は「なによ!」と急に怒り出した。
「疑うの? ちゃんと手帳もあるんだからね」
そう言って、箪笥から赤い表紙の手帳を取り出した。
『身体障害者手帳』と書いてあった。
「視覚障害で、1級なのよ」
真佐子の言葉に、師匠は「えっ」と驚いた。
「たしか、視覚障害だと、片目が全盲だというだけでは手帳は出ないはずですよ。両目の矯正視力の合算で等級が決まるから。なのに一番重い、1級って、どういうことですか。ちょっと、見せていただいてもいいですか」
「ほら、1級でしょ」
真佐子は手帳を広げて見せた。
たしかに、1種、1級と書いてある。
「両眼の視力の和が、0.01以下のもの……」
師匠は内容を読み上げた。その言葉が意味していたものは……。
「全盲、なんですか」
師匠も、僕も絶句していた。全盲だって? そんな。バカな。
「たしかに、あの人です」
僕は、手帳に添付されていた写真を見て、そう言った。
右目のあった場所には、引き裂かれたような皮膚が張り付いている。そして左目は、どこか焦点のあっていないような角度で止まっていた。
雨の日のバス亭で出会った女。やや幼い印象だが、あのレインコートのフードを取った、その顔が、そこにあった。
「監禁されてたときにね。左は、義眼なの。右は怪我が酷くて、整形できなかったから」
母親のそんな軽々しい言葉が、もうほとんど耳に入らなかった。
「そんな娘が、1人で出て行って、平気なのか」
僕は言葉を選ぶ余裕がなくなりつつあった。この女は、おかしい。普通の神経ではない。
「見えないけど、大丈夫なのよ。あの子は。自分のことは、なんでもできたから。弓だって、百発百中だったのよ」
目が見えなくて、そんなことができるのか。信じられない。
「だから、大会に出さなかったのか」
師匠が呟く。
『不気味な子だ』
父親のそんな言葉が、頭をよぎる。目が見えないはずなのに、見えているとしか思えないようなことが、日ごろからあったというのか。
「あんたたち、本当は年金の調査員なんじゃないでしょうね」
母親が、怒り出した。
「帰って。帰ってよ」
急に立ち上がって、師匠の肩を押し始めた。
「障害年金か」
師匠もハッとした顔で、立ち上がった。
「あんた、娘の障害基礎年金を、自分で使ってるな」
師匠は母親の手を掴んで言った。
「目が見えない娘に、障害年金も、父親の仕送りも渡さず、ここから出て行って2年だって? あんたそれでも母親か!」
「うるさいっ。出て行け」
真佐子は師匠の手を振りほどき、そこらにあったゴミや食器を投げ始めた。
灰皿が師匠の肩に当たり、なかに詰まっていた灰が、室内に拡散した。
師匠と僕は、しかたなくその部屋から出た。バタンッ。と乱暴にドアが閉められる。
そのドアをしばらく眺めながら、僕らは言葉もなくたたずんでいた。
翌日、僕らは鳥井家の玄関の前に立っていた。
いきなり訪問すると、博一老人は、不機嫌そうに追い返そうとした。それはそうだろう。昨日の今日なのだ。
「あすみさんが、お母さんのところからいなくなっていることを、知ってましたね」
師匠がそう言うと、老人は目を見開いて唸り、そして折れた。こっちへ、と言ってまた僕らを道場に招きいれた。
老人は、今日は袴姿ではなく、シンプルな夏服を着ていた。
僕らは道場の板張りの上に座り、向かい合った。ジワジワジワと蝉が鳴いている。切られたように開け放たれた道場の屋外から、陽光が差している。
「百発百中だったと、真佐子さんが言っていました。本当に、そんなことができたのですか」
師匠は陽の当たる屋外の的のほうを見ながら言った。「目が、見えないのに」
老人は苦悩するような表情で、深く息を吐いた。
「あの子は……」
そう言いかけて、言葉を探しているように口を閉じた。
「本当は見えていたのですか」
「いや、見えない。両目の眼球が、抉り出されていたのだ」
僕はそのえげつない言葉にゾッとした。
「監禁されていたときに、ですか」
「そうだ」
老人は、死んだ誘拐犯をその手で絞め殺そうとするように、膝の上の右の拳を左手で強く握っていた。
「では、ここにはなんのために通っていたのですか」
「……4射ずつ、続けて5回。合わせて20射。あの子は、20射を皆中(かいちゅう)できた」
老人の、喉に詰まったものを吐き出すような告白に、僕らは息をのんだ。
「あの子は…… あすみは、わしらの見ている世界とは、別の世界を見ていた」
「別の…… 世界?」
「目が見えないあの子は、自分の頭のなかで、周りの風景を想像している。ここに、扉があるのではないか。あそこに、的があるのではないか…… それらが、ほとんど現実の世界と一致しているのだ」
「そんなこと」
思わず僕は口走った。「あるはずがない」
「あの子の見ている世界では、人ではないものまで蠢いている。それは現実の世界にはない。わしらには見えないものだ。あの子も最初は怖がっていた。しかし、弓を習うにつれて、それらを射殺せることに気づいた」
師匠の顔つきが鋭くなる。僕も、その言葉の意味を、理解した。
「鳥井家に代々受け継がれていた、犬神人の本来の役割を、あなたが教えたのですね」
師匠が問いかけた。
「そうだ。鳥井流は、犬神人の最後の系譜は、あの子にこそ相応しいと思ったのだ」
老人は壁にかけられたいくつかの弓を見上げる。その一番上にある、弓のない台だけの場所を。
「油(あぶら)の弓という、代々穢れ払いに使ってきた弓があった」
「そこに、掛けられていたのですか」
老人は頷く。今はその弓はなかった。
「あの子に、やろうとした。だが、あの子は、油の弓を持って行ってしまったのだ。あの子の見ている、別の世界に」
「どういうことですか」
「もう、わしにはその弓が、見えなくなった」
ぽつりと老人は言った。
ぞわっと背筋に走るものがあった。繋がってくるのだ。その荒唐無稽な話が、連続通り魔事件の奇妙な謎と。
見えない矢。見えない弓。まさか。そんなこと。
師匠も絶句している。
「私は…… わしは、あの子が恐ろしい」
冷たい息を吐き出すように、老人は言った。蝉の声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
「居場所に心当たりは」
師匠の問いかけに、力なく首を振った。
「あすみを、止めてくれ」
老人は、何者とも知らないはずの師匠の顔を見つめて、そう懇願した。師匠は口を引き結んで、なにも言い返さなかった。ただ、老人を睨みつけ、背後にある壁を睨みつけ、ここにいない、かつての誘拐事件の被害者であった少女を、 盲目の連続殺傷事件の犯人を、その過酷な人生を、睨みつけていた。
◆
師匠と僕は、鳥井家を出たあとで、西署の刑事、不破と喫茶店で落ち合った。
春に、幽霊物件にかかわる事件の際に不破と待ち合わせたのと同じ、『ジェリー』という店だった。
「なんだおまえら、草野球帰りかよ」
不破は僕らの格好を見て笑った。改めて僕らは、お互いの姿を確認する。阪神タイガースの帽子に、バットケース。師匠はいつもの脚線美を惜しげもなく晒した、ホットパンツだ。
不破のほうはあいかわらず、ヤクザにしか見えない服装だ。少なくともカタギには見えない。
「で、見つかったのか。弓使いちゃんは」
ボックス席にもたれかかるように深く腰掛けながら、不破は言った。
「捜索中だ」
師匠はそれだけ言って手のひらを振った。
不破からは、連続通り魔事件の情報を横流ししてもらうかわりに、こちらの得た情報も教える約束になっていた。
「頼むぜ。1課の連中も困ってんだ。俺のカンだと、あれは普通の捜査じゃ無理だな。お宮だ。お宮入り。おまえの得意な分野の事件だとすると、そうなるな」
「まだわからないよ」
「おい」
不破はずい、と師匠に顔を寄せた。
「犯人がわかったら、俺に教えろ。最初にだ」
冗談で言っているわけではなかった。真剣にもちかけているのだ。不破も、師匠の能力を信じている人間の1人だった。
「なあ、不破さん。例えばの話だけど、呪いでさ…… 呪いで人を殺したら、それは罪に問えるのか」
「はあ?」
「犯人が、呪いで殺したと言っている。被害者も呪い殺される、と怯えていた。で、呪いで殺したとしか説明できない状況での殺人が発生した。これは、殺人罪が適用できるのか」
不破は笑った。
「そいつはな、迷信犯ってんだ。不能犯、つまり犯罪意図と、結果が実証的に結びつかない行為の一種だ。丑の刻参りで呪われた相手が死んだとしても、藁人形を釘で打つ行為と、相手が死んだ結果の因果関係が科学的に立証できないから、罪には問えない。逮捕しても、まあ、あって脅迫罪くらいにしか持っていきようがないな」
「じゃあ、なんで犯人を訊くんだ。私の得意分野の事件なんだろ」
「今回は被害者が、実際に矢のようなもので重傷を負っている。どんなやつか知らないが、とっ捕まえさえすれば、凶器が見つからないことなんて、どうとでも説明はつけられるさ」
片方の眉を上げて、不破は不敵にそう言った。
「それ、冤罪みたいなもんじゃないですか」
僕がそう言うと、不破は「ああ?」と言って睨みつけてきた。怖い顔だ。僕はツバを飲み込む。
犯罪をでっち上げる、と言っているに近い。目的のために手段を選ばない。こういう刑事が、冤罪を生むのだろうか。
「不破さん、あんた、1課に戻りたいのか」
師匠の問いかけに、不破は、ふ、と表情を和らげた。
「暴力犯係はな、つまらんよ。やつらの頭のなかは、みんな同じだ。暴力、女、金、メンツ…… そいつらと四六時中やりあってるとな、だんだん頭のなかが麻痺してくるんだよ。麻痺して、同じ発想しかわいてこなくなる。ヤクザ相手の稼業は、ヤクザ者しか勤まらないってのはよく言われるがな。あれは逆だ。なっちまうんだよ。こんな風にな」
不破はジャケットを自分の両手で広げて見せた。そこには鍛えられた厚い胸板しかなかったが、なんとなく、言っていることはわかった気がした。
「ちっ」
不破は、余計なことを言った、というように視線を逸らし、頭をかいた。師匠は、くすり、と笑った。
「ここ、いいかな」
突然、そんな声がかかった。
昼時で混雑した喫茶店の4人がけのボックス席には、僕と師匠、向かいに不破、という3人が座っていた。その空いている不破の席の隣に、スーツ姿の男が返事も待たずに腰掛けた。
「なっ」
不破も、師匠も、僕も、驚いて腰を浮かせかけた。しかし、その男の身体から発せられる威圧感に、一瞬金縛りのようになっていた。
「松浦……」
不破が、驚愕しながら男の横顔にそう呼びかけた。
松浦。
地元の大規模暴力団、立光会の直系団体、石田組の若頭補佐。それがその男の肩書きだった。僕と師匠はこの春に、古い心霊写真にまつわる事件で、この男と関わり、その底知れない恐ろしさを感じたばかりだった。
松浦が、喫茶店の入り口に向かって手を振った。人目でカタギではないとわかる服装の男が、頭を下げて店から出て行った。組員か。あいつに、どこからかあとをつけられていたのか。僕らか、あるいは不破が。
「すぐに終わりますよ。話は、シンプルなものがいい」
松浦はテーブルの上で、両手の指を組んだ。黒縁の眼鏡の奥から、蛇のような薄い視線が僕ら3人を静かに威圧していた。
「お嬢さん。あなたが探している女は、私の石田組の親戚筋である、酒井興業の西野という男の情婦です」
「なにっ」
師匠が、周囲を凍らせるような松浦の威圧感に抵抗して、身を乗り出しながら睨みつけた。
「ヤクザの女を探し回るってことは、つまりそのヤクザを、ひいては組を、的にかけてるってことです。私たちの業界ではね。あんな風に派手に探されると、痛くも無い腹を探られる気にもなる、というものだ」
「ヤクザの女? だれのことだ」
「不破さん。あなたには話していない」
ぐっ、と不破は唸った。僕は、不破が怒鳴りだすと思った。しかし不破は口を引き結んで、席に深く沈んだ。意外な光景だった。この不破にも、松浦はアンタッチャブルな存在なのだろうか。
「西野はつまらないチンピラです。その女は西野のところに転がり込んでから、客を取らされていたようです。顔に大きな傷があるから、普通の店には出せない。だから……」
「シャク屋か」
師匠が言った。シャク屋。聞いたことがある。この街に特有の風俗の呼び名で、民家を使ったポン引きだ。まともな店を構えないから、値段は安い、最底辺の風俗だ。
「そうです。しかし、その女は数ヶ月まえに西野の元から姿を消しました。客のだれかと逃げたのかも知れない。西野は困っていましたよ。金づるがいなくなって」
ドシッ。
師匠が固いテーブルを拳の腹で打った。松浦は平然と続ける。
「とにかく、その女は消えました。あなたなら、西野までたどり着いてしまいそうだから、先に教えるのです。余計なことを探り回らないでいただきたい。西野も、酒井興業も、その女のことは知りません。それは私が保証します」
「おい、松浦。私は、ヤクザが嫌いなんだ」
師匠は押し殺した声でそう言った。
「知っていますよ。オバケが好きなこともね。……あなたが、その女を追っているのは、オバケが絡んでいるんでしょう? 私たちの業界の、余計なものを見ないようにしてもらえば、好きにしてください」
松浦は立ち上がった。
そして、師匠と、僕の顔を眺めなら、「怖いな」と言って、薄く笑った。
怖いだろうとも。
去っていく松浦の背中を見ながら、僕は隣の師匠が放つ殺気を痛いほど感じていた。僕もまた、自分の身体から同じ力が噴き出しているような気がした。
僕らの探していた弓使い……。
誘拐・監禁され、学校教育を半分も受けられず、両目を抉られ、生涯にわたる傷を負い、両親は別居し、母には経済的に搾取され、チンピラの情婦になり、客をとらされ……。
「おい、おまえら」
不破が、僕らの尋常でない様子に戸惑っている。
ちょっと、黙っててくれないか。
それでも、山田あすみは、弓使いは、この街を、悪霊から、守ろうとしているんだぜ。
ギシギシと、僕らの周りの空気が軋んでいる。
やり場のない感情が、僕の目から、涙となって流れ落ちていった。
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