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『医者の話』

Pixiv
 師匠から聞いた話だ。


 大学2回生の夏。
 僕はオカルト道の師匠である加奈子さんに連れられて、ある豪邸の前に来ていた。
「医者に会いに行く」
 と言っていたので、バイトをしている興信所とズブズブに繋がっている、松崎という闇医者(闇医者の定義はよく知らないが、僕のなかでは完全にそうだった)のところに行くのかと思っていた。
 しかし、僕の運転する自転車の後輪に立ち乗りをして、あっちに行け、こっちに行けという指示を出している師匠に従っていると、だんだんと高級住宅街のほうへ向かうではないか。
 もちろん松崎医師の診療所の方角とは違う。
 そう思っていると、ふとつい先日あった、小人を見る人が増えている、という謎を追っていたときの出来事を思い出した。
 大学病院に潜入したとき、いつも迷惑をかけている看護婦の野村さんがこんなことを言っていた。
『そう言えばあなた、最近また検査をさぼってるでしょう。真下先生も心配してるんだから、ちゃんと受診しなさい』
 あのときも気になっていたが、詳しく訊こうとしてもはぐらかされて、師匠は答えてくれなかった。
 自分の体のことを。
 なにか持病があって、病院にかかっているのだろうか?
 いつも必要以上に元気で、エネルギーに満ち溢れている加奈子さんが、いったいなんの病気なんだろう。
 確かに食生活は、生活費困窮問題もあり、いいとは言えないが、そんなものをものともしない日ごろの健康優良ぶりを見ていると、まあ、心配するようなことではないか、と思ってしまう。
 しかし、ときに垣間見る、いつもと違う横顔。精気がない…… いや、精気が失われていくような、妖しい魅力を秘めた横顔を思い出すたび、小さな不安が胸のなかで育っているのを感じるのだった。
「ここだ」
 師匠の言葉に、自転車のブレーキをかける。
 閑静な住宅街で、自分ではほとんど通ることがない。大きな家が並んでいて、あの辺りにはお金持ちが住んでいる、という印象しかない。
 目の前に延びる、高い石塀に取り付けられた表札を見ると、『鹿田』とある。
「鹿田実(シカタ ミノル)って言って、去年退官した、うちの大学の元医学部教授だよ。医学部長だった人だ」
 そう言えば、そんな名前を聞いたことがあるような気がする。
 というか、師匠はそんな人とも面識があるのか?
 うちの大学の医学部は、近隣の県の医学界では非常に影響力を持っていて、うちの大学から医師の派遣を受けられるかどうかで、その他多くの病院の命運が決まる、というのを聞いたことがある。
 当然、各地域の医学界では、うちの大学派閥が幅を利かせていて、他の大学の医学部でも、トップ人事に関しては常にうちの大学の出身者かどうかが考慮される、という話だった。
 医学部長といえば、医学部のトップだ。大学付属病院の院長とどっちが偉いのかは知らないが、とにかく、このあたり一帯の医学界では頂点とも言える位置にいた人、ということなのだろう。
 師匠はどうしたらそんなに、と唖然としてしまうほど、他学部の教授、助教授に顔が利く。人たらし、という言葉があるが、まさにそれを地で行く人だった。
 この僕にしたところで、初めて会ったときから、ずっとたらされている。
「あれー? 洗濯物出てないなあ。約束しといたのに。いるかな」
 師匠は目深にかぶっていたキャップの先を人差し指で上げて、眩しそうに豪邸の2階を眺めた。今日は日射しのとても強い、いい天気だった。
 玄関の門の向こうに広い庭が見えていて、鮮やかな色の芝生が敷き詰められている。
 医者は儲かるんだな、と至極つまらない感想が頭に浮かんだ。
チャイムを鳴らすと、インターホンから低い声が聞こえて来た。
『入りなさい』
 ガチャン、という音がして、重そうな門の鍵が開いた。遠隔操作できるのか。
2枚になっている格子戸のような門の片方を押して、敷地のなかに入った。
芝生の間に延びる道を通って、本玄関までたどり着くと、なかからドアが開いた。
「久しぶりだな」
 背の高い老人が現われ、響くような低い声で師匠に話しかけてきた。
 これが鹿田教授か。いや、もう退官しているのだから、鹿田博士というべきかも知れない。
「ご無沙汰していました」
 師匠は深々と頭を下げた。まるで怒られているようだった。
「君はだれかね」
 え、僕ですか。
 うろたえながら、金魚のフンです、と言おうとして思いとどまり、結局「後輩です」と無難なことを言った。
 博士は小さく鼻息を吐いたかと思うと、師匠と僕とを見比べてから、「よかろう」と言った。
「来たまえ」
 そうして、僕たちは豪邸のなかに招き入れられた。

 応接室に通されて、しばらく待っていると、家政婦らしい若い女性が飲みものを持ってきた。僕と師匠は2人ともコーヒーを頼んだ。なかなかの味だった。
 コーヒーを飲み終わるころ、鹿田博士がようやく応接室に入ってきた。
「待たせてすまんな。一区切りをつけていた」
 解剖か実験か、なにかそんなことをしていたのだろうか、と思ったが、服装は白衣ではなく、さっきと同じ白い開襟シャツとズボンという格好だった。ということは、書き物かなにかだろう。
「野村君から、話は聞いているぞ。検査に来ていないそうだな」
 鹿田博士がそう言いながら僕らの向いのソファに腰掛けると、また家政婦の女性が応接室に入ってきて、博士の前にカップを置いていった。紅茶だった。
「信用ができない」
 師匠は握った右の拳を、左の手のひらで包んでそう言った。
「どういうことだ」
「真下先生に、私の体をいじらせたくない」
 師匠のその言葉に僕はドキリとする。私の体、という言葉にだ。
「真下君は私の良き教え子だ」
 鹿田博士はカップを置いて、ソファに深く腰掛け直した。
「私だと思って、検査を受けなさい」
 諭すような鹿田博士の言葉に、師匠は黙った。僕はその横で、いったいなんの話をしているのだろうか、とドキドキしていた。
 鹿田博士は鷲鼻で、彫りの深い顔立ちをしている。その鋭い目で射竦められると、肉食獣に睨まれた小動物のような気持ちになってしまいそうだった。
 物腰や口調は紳士的ではあったが、どこか威圧的な男だった。年齢相応に老人と呼ぶにはあまりに油断ならない、そんな雰囲気を持っていた。
 師匠はそんな鹿田博士の視線を真っ向から受け止めて、口を開いた。
「私の主治医は、鹿田教授だけだ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいが、私はもう一線を退いた身だ。日がな一日、好きな本を読んでいるだけの老人だよ」
「鹿田総合病院の理事長が、隠居職ですか」
「そうとも。入り婿に用意された最後の椅子だ。せいぜいゆっくり座らせてもらうとしよう」
「私の主治医は、それでも鹿田教授だけですよ。なぜなら、ほかの医者なら、私を病気だと診断しないからです」
「どういう意味かね」
「わかるでしょう」
 師匠は緊張した面持ちで鹿田博士の顔を見つめた。
 博士はため息をついて、僕のほうを見た。
「彼は知っているのかね」
「さあ。なにしろ鈍感なやつですから」
 そんな話をされても、なんのことかさっぱりわからない。蚊帳の外に置かれて、気持ちが悪かった。
「どういうことですか」
「こういうことだよ」
 僕の問い掛けに、師匠は短くそう言うと、テーブルの上にあった重そうなガラスの灰皿を掴んだ。そしてそれを振り上げた瞬間、鹿田博士が鋭い声を上げる。
「やめたまえ」
 その声に師匠がぴたりと静止する。そして苦笑いを浮かべて、「冗談ですよ」と言って、振り上げた灰皿を下ろした。
 そのやりとりの意味もわからない僕は、うろたえるばかりだった。
「検査は継続して受けなさい。これからも、できるだけの便宜は図るつもりだ」
 博士は、便宜、という言葉を強調するように言った。
 師匠にはわかる符牒なのだろう。しかし、師匠は首を振った。
「真下先生は信用できない」
「なぜそう思うのだ」
 博士が問い掛けると、師匠は少し黙った。そしてしばらくして、まったく違うことを口にした。
「角南グループってのは、本当に力を持っているんですね。春にちょっとしたことがあって、いろいろ調べていたんですけど。本業の建設会社以外にも、物流や教育分野なんかにも、手を広げている。いわゆる地方財閥だ。ウソか本当か知りませんが、GHQから財閥解体指令を受けるリストから、最後の最後で漏れたとかなんとか…… とにかく、庶民には全体像の把握すら難しい大資本です。そのグループ企業のなかに、うちの医学部とは深い繋がりのある、ヤクモ製薬がありますね」
 CMでよく耳にする名前だ。ヤクモ製薬とは、市内に本社を構える製薬会社だ。いわゆる全国企業ではないが、地元では有名な会社だった。
「ヤクモ製薬は、うちの大学の医学部の大スポンサーだ。どの研究室だって、ヤクモの出資や補助金なしではやっていけない。金だけじゃない。人の交流も含めて、ヤクモと医学部、そして大学病院は不可分の関係です。その関係は、近隣のほかの病院や研究機関、他大学の医学部のなかの派閥にも影響を与えています。医師会の構成にもね」
 師匠の意味ありげな目つきに、鹿田博士はやれやれ、といった表情を浮かべる。
「教授は東大医学部出身ですよね。うちでは外様だ。そして、鹿田総合病院を抱える、医療法人鹿鳴会グループの会長の娘婿として、大きな名声と力と金を持って、医学部内の権力闘争に勝った。これはヤクモ記念病院を筆頭に、大小たくさんの系列病院を持つ、医療法人ヤクモ会と、鹿鳴会の代理戦争だ。鹿田教授が医学部長の席についてから、うちの大学や大学病院も多少ヤクモとの距離を置きましたね。県外資本がかなり入ったと聞きました。それでも、ヤクモがうちの医学部の、『筆頭株主』だってことは揺るぎません。医学部のトップにヤクモの息がかかっていない、というのは、鹿田教授という特異な人物がいたからこそ生まれた、一時的な現象に過ぎない。そうでしょう?」
「……医学部の内情のことまで、よく調べたものだ」
「教授の退官後は、またヤクモとべったりの医学部長になりましたね。大学病院の院長も即交代でした。ここからはまた、ヤクモの一方的な巻き返しの時間です。さて、免疫病理学の権威だった鹿田教授の薫陶を受け、病理部長に登りつめた真下助教授……いえ、もう教授でしたね。その彼が、鹿田教授という後ろ盾を失った今、学内でどんな立場にいるか、ご存知ですか」
「なにが言いたいのだね」
「ヤクモにしっぽを振り始めるのに、十分な条件が揃ってるってことです」
「……彼は今も私の優れた教え子だ。医学部長の井坂君も、バランス感覚を持った人物だ。どこで訊き込んだのかわからないが、君は組織内のゴシップを真に受けすぎている」
「私の回りに、どうにも気に食わない動きをしているやつがいるんですよ。春にあった、ちょっとした事件で例の角南グループの角南家と関わりを持ってしまいましたが、その関連だと思っていたんですけどね。ヤクモ製薬が角南家の意向を受ける立場にある、とすると、その絵面がもう少し複雑になるんですよ」
 鹿田博士は、淡々と語る師匠をじっと見つめている。
「私の『病気』のデータが、渡ってしまっている可能性があるってことです」
「そんなはずはない」
 鹿田博士の静かな返答に、師匠は一瞬、悲しそうな表情を浮かべた。
「もうあそこは、あなたの城じゃないんです」
「……」
 その言葉を吟味するように押し黙った博士は、やがてゆっくりと口を開いた。
「君の不安はわかった。そうならないようにしよう。データもこちらに完全に引き上げる。これからは、検査も大学病院へ行かなくていい。ここへ来たまえ。私が診る」
 その言葉に、師匠は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます」
 鹿田博士はソファに背中を預けて、深く息をついた。
「君という患者と出会ってから、どのくらいになるかな。まだほんの子どもだったのに、今ではもう、私をやり込めるようになったか。この歳になると、時の流れの加速を感じざるを得ないよ。看護婦の野村君が、わけのわからないことをまくしたてながら、この手を無理やり引っ張って、引き合わせてくれたのが、私にはまるで昨日のことのようだ」
 博士はじっと自分の手を見つめている。
 細く長い指をしていた。雰囲気に飲まれていた僕には、その指を含む手のひら全体が、1つの芸術品のように見えた。
「教えてください、教授」
「私はもう教授ではないよ」
「名誉教授になったんじゃないんですか」
「そんな呼称に、たいした意味はない」
「とにかく、お聞かせください。次の衆院選は、来年ですよね」
「解散がなければ、再来年だ」
「あるでしょう。これでも新聞はよく読むんです。その来年にあるはずの衆院選には、角南家の御曹司が出るという噂を聞きました。2区で。それは医療法人ヤクモ会の現理事長、角南大輝のことですか」
「なぜ私に訊くのだ」
「教授は、医学科長だった時期に、県医師会の理事をしていたそうですね。大学からのお目付け役として、送り込まれていた。そして、大学を退官し、鹿田総合病院の理事長に就任した今、再び県医師会の理事の職についている。そして来年にはもう県医師会のトップの席に座る、という噂を聞きましたよ」
「そんな噂は初耳だな。理事にしても、めんどうな世話役を押し付けられただけだ。医学部長時代の横紙破りが、今になって色々祟ってきているのだ」
「どんなに謙遜しても、県医師会の理事長の座は、1つの権威です。それも強大な実体を伴った。……衆院選を来年に控え、医療法人を出身母体にした新人候補が、医療、福祉系の大票田である県医師会の事実上のトップに、挨拶をするのは当然でしょう」
「立場的には、仇敵とも言える間柄なのだがね」
「だからこそです。角南大輝は、2区の王にして首相候補とも言われる代議士のHに勝つために送り込まれる刺客だ、という噂です。県医師会は前回の選挙ではHの支援に回りました。その陰には、ヤクモ会が、つまり角南家の力が働いていたことは周知の事実です。その角南家が、今度は自ら候補を立ててきた。Hから県医師会を引き剥がすために、ドロドロの策謀が繰り広げられることは、想像に難くありません。どんな手でも使うでしょうね。たとえ仇敵に、塩を送ることになっても」
 博士はやれやれ、というジェスチャーをしてため息をついた。
「女子三日会わざれば、即ち更に刮目して相待つべし、か。いっぱしのジャーナリスト気取りかね。私は、隠居した老人だよ。静かに本を読んでいたいだけの」
「これは私のカンです。ヤクモ会の角南大輝は、いえ、角南家はどこかキナ臭い。関わらないほうがいい。それをビンビン感じるんですよ」
 博士はすく、と立ち上がった。
「さあ、もうおしゃべりは終わりだ。政治家である前に、私は医師だ。君の主治医だ。違うかね」
 来なさい。
 博士はそう言って、廊下の向こうへ着いてくるようにと、師匠を促した。
 生まれついて、人に命令を与えることが体に染み付いたかのような、そんな威厳があった。
 別室で検査をするらしい。
 小一時間、応接室で1人待たされて、僕はなにがなんだかわからない不安に苛まれていた。
 鹿田博士と一緒に戻ってきた師匠は、いつもと変わらない様子だったが、博士のほうの顔色は曇っているようにも見えた。
「待たせたな。帰ろうか」
 そう言って帰り支度をする師匠をちらりと見てから、博士は僕に話しかけてきた。
「君は、彼女のパートナーかね」
 パートナー?
 その奥深い言葉の意味を図りかねて、答えられずにいると、博士は続けた。
「性交は控えたまえ」
 はい?
 今日一番の衝撃に、瞳孔が広がりそうになった。
「ちょ、ちょっとなに言ってんの教授。人を性病みたいに言わないでよ」
 師匠が慌てた様子でまくしたてる。
「命に関わる、と言っているんだ」
 真剣な表情で、博士は師匠をたしなめた。
「違うからな。そういう病気じゃないから」と師匠は早口で僕に言ったあと、「やめてよ教授。こいつ、そういうんじゃないし。弟みたいなやつなんだ」と身振り手振りで訴えた。
 せいこうはひかえたまえ。
 せいこうは。
 せいこう。
 せいこう。
 ……
 そんなやりとりの横で、僕の頭のなかには、その言葉だけが何度もリフレインされていた。





「ちょっと、待ってください。加奈子さんって、エイ……」
 人体の免疫機構にかかわる病名を言おうとして、口ごもった。
 なんだか、はばかられて。
 師匠の過去の話を聞いていた俺だったが、思わず口を挟んでしまった。それも中途半端に。
 話の腰を折られた師匠は、回想に身が入り過ぎていたことに気がついたのか、恥ずかしそうに居住まいを正した。
「違うよ。本当に、そういう病気じゃなかった。というか、むしろ……」
 師匠はそう言いかけて、言葉を見繕うような顔をした。
「むしろ、それを病気と呼べるかどうか疑問だね。本人自身が、ほかの医師ならそう診断しない、と言ったように」
「どういうことですか」
 俺の問い掛けに、師匠はすぐ答えなかった。
 しばらく目を閉じて、なにかを思い出そうとしていた。
 そして目を開けたかと思うと、なにやら難しい話を始めた。
「鹿田博士って人は、もう亡くなってしまったんだけど、凄い人だったらしい。僕の師匠は、権力抗争だの、政治力だの、そんなことばかり強調して言っていたけど、医師として、そして研究者としても立派な実績を残している。大学の付属機関だった病理学研究センターの所長もしていて、免疫病理学の世界では大変な権威だったそうだ。博士は、細胞診の基本的な染色法であるパパニコロウ染色を改良して、僕の師匠の検体を調べていた。シュプライト染色、と名づけていたそうだよ。『シュプライト』は妖精という意味だね。元になったパパニコロウ染色ってのは、基本的に細胞核を青藍色に、細胞質を朱色、橙色、緑色に染め分けて、調べる手法だ。ところが、僕の師匠の検体に含まれるある物質が、従来の染色法になじまないために、わざわざ研究して確立したのが、そのシュプライト染色だ」
「なんですか、その、ある物質って」
 師匠は、そうだな、と言ってどこまで言おうか吟味しているような顔をした。
「細胞のなかに、普段は普通の細胞として働いているけど、ある瞬間を境に、まったく別のものに変質する細胞があったんだ。博士は、その細胞の正体を調べるため、シュプライト染色を施したんだけど…… 特定の細胞のなかにだけ、青黒く染まる奇妙な細胞質が存在していることに気づいた。博士はその細胞質をシュプライト変異体と名づけた。博士は、その変異体の性質を徹底的に調べ上げた。その結果、これは現代医学における『エラー』だと言ったそうだ。そうしてそれ以上の研究を放棄した。もちろん学会での発表はおろか、学内でも秘匿していた」
「エラー、ですか」
 俺は、きょとんとしてオウム返しをした。
 師匠は頷いて続ける。
「まるで夜のような色に染まるその細胞質を含む、特定の細胞群…… その細胞を博士は、夜の細胞、『Night Cell』と呼んでいた」
 ナイト・セル。
 なんだか、教育テレビの科学講座を見ているような気持ちになる。小難しい話だ。
「よくわかりませんが、それが加奈子さんの病気と、どういう関係があるんですか」
「だから、それを病気と呼んでいいのかもわからないんだって」
「だったらなんなんですか」
 師匠はその問いに、はぐからかすような薄ら笑いを浮かべたあと、ぽつりと言った。
「特異体質」

 (完)

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