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『馬霊刀』 2/4

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2 弓使い
 それから1週間ほどは、なにごともなかった。
 小川調査事務所の師匠を名指しした依頼は、特になかったので、そのあいだ僕らは事務所のバイトから離れていた。師匠とは2回ほど一緒に飯を食べたが、その『弓使い』に関わる話はしなかった。訊こうとしたが、「捜査中」と言って教えてくれなかったのだ。
 その食事のうちの1回は、昨年に引き続いての師匠宅での『そうめん祭り』だった。師匠は地元の消防団に入っているのだが、そこでもらった大量のそうめんを、家で茹でまくるのである。
「小西もっと食え」
「中西です。食べてますよ」
 師匠の部屋の隣に住んでいる、卵のようなのっぺりした顔の隣人も、昨年に引き続いて呼ばれていた。職業不詳の男だが、ボロアパートの住人なのに加え、この師匠に食料をたかりに来るというつわものなので、よほどひどい暮らしをしているのだろうと思われる。
「今年の夏も暑いですねぇ」
 隣人は大袈裟にそうめんを啜り上げながらも、正座を崩そうとしない。妙にところで律儀なところがある。対照的に師匠はホットパンツであぐらを掻いている。
 クーラーなどない部屋だ。氷をのせたそうめんの山は、見た目には涼しげだが、みんな汗だくだった。
「そういえば、お2人はいつごろご結婚なさるのですか」
 僕は、ぶほっ、とそうめんを数本吹いてしまった。
 この卵男、いきなりなにを言うのだ。
「いや、よくここへ通ってらっしゃるので、もうそろそろかと思いましたが」
「馬鹿じゃねーの中西、この野郎」
 師匠が字面とは裏腹に、冷徹な声で突っ込みをいれた。しかしよく見ると、鼻からそうめんが出ている。
「私の名前は大西ですよ。あれ。まだなんですか。お似合いだと思いますが。まあ、旦那さんのほうはまだお若いですからね。大学卒業を待って、という感じでしょうか」
「こいつの卒業待ってたら、へたすると私30歳越えるぞ。ていうか、そういうんじゃないからこいつは」
「はあ」
 グッジョブだ、卵男。名前も毎回違うし、ほとんどなにも考えずにしゃべっているテキトーな男だが、今回はグッジョブだ。
 僕は卵男のノルマの皿から、お椀1杯分くらいのそうめんをもらってやった。すると卵男は、「なにするんですか!」とそれを奪い返す。
「まだ食えるんですか」
 呆れてそう訊くと、「死んでも3日分は食い溜めます」とノロノロ箸を動かしていた。
 その日も結局、そうめんだけ食べて解散だった。
 師匠がいつもに比べて、ずっとどこか不機嫌そうな様子だったのは、『弓使い』の捜査がうまくいっていないのかも知れない。それもそうだろう。あれだけニュースになって、警察が去年の冬から懸命に捜査している事件なのだ。零細興信所のいちバイトの身に過ぎない師匠が、急に真犯人を見つけられるはずもない。
 ただ、ことオカルトやオバケが絡むとなると、師匠はその能力を遺憾なく発揮する可能性もある。警察が犯人を見つけられないのも、オカルトじみたことが原因なのだとすると……。
『乗車券をお取りください。乗車券をお取りください』
「おっと」
 考えごとをしていて、乗るバスを間違えるところだった。
 足をかけた乗車口から下り、サイドミラーでこっちを見ているであろう運転手に、両手でバツマークを作って頭を下げる。
 やがてバスはゆるゆると発車していく。排ガスが雨粒のなかに一瞬、生ぬるい空気の層を作る。僕は傘をさし直して、頭についた水滴を払った。
 昨日から雨が降り続いている。空はまだ昼間の4時だというのにうす暗い。研究室の友人宅からの帰りだった。いつもは自転車なのだが、荷物があったので、濡れるのが嫌でしかたなくバスを使っていた。
 友人宅は市内の南のほうで、医学部キャンパスに近かった。バスに乗って来るとき、途中で医学部の付属病院が見えて、少し気分が悪くなった。師匠が定期的に受診して、検査を受けていたことを知ったのは、先日のことだった。
 いったいなんの病気なのか。結局本人に聞くことはできないでいた。
 住んでいるアパートのほうへ向かうバスは、この次だった。バスの停留所には、自分ひとりしかいなかった。ベンチはあったが、申し訳程度の屋根しかついていないせいか、雨に濡れていて、座る気にはなれなかった。
 傘をさして立ったまま、僕はいろんなことを考える。そのほとんどが、いや、すべてが師匠のことだった。なにもかもが、気になって仕方がなかった。最近服部さんをやけにからかっていることさえ、気になった。まさか、服部さんに取られることはない、と信じているのだが。
 あの野郎。
 師匠が、「服部調査事務所を作れ」とからかったときに、「そのときには、あなたが欲しい」などという、思わぬ返事を受けて戸惑っていたことが、我がことのように腹が立つ。あの陰険ヒョロ眼鏡が! そのときには、もれなく僕もセットだこの野郎!
 そんなことを考えていたときだった。
 自分の背後に、だれかがいた。
 傘を、雨粒が打っている。その音が、急に大きくなった気がした。
 首をわずかに捻ると、視界の端に、灰色のレインコートが見えた。
 後ろを取られた。
 とっさにそう感じた。
 なぜそう思ったのか、考えをまとめる余裕もなかった。とにかく自分のなかの、危険を察知する能力がそう告げていた。
 振り返ることができない。だめだ。なぜって、後ろを、取られたからだ。それだけが、脳にアラートを告げている。
 雨のなか、周囲にはほかにだれもいない。目の前の道路を、車が途切れ途切れに走り抜けていく。
「あの女は、なにものだ」
 女の声がした。
 灰色のレインコートは位置的優位をあっさり捨て、スッと僕の横に立った。
 深くフードを下ろしている。顔は見えない。
 女だ。まだ若い。背は高め。体格はスリムだ。なぜか右手にだけ、厚手の手袋をしているが、手にはなにも持っていない。
「なにか、妙なものが混ざっている。あいつは、敵なのか」
 最後はひとり言のようなイントネーションになり、同時に、ざわざわと空気がヒリつきはじめた。
 緒方が依頼に来たときに、感じたあの気配。そして緒方の店『ジャガナート』で感じたあの、寒気のする気配。
 こいつだ。弓使い。師匠が追っている、連続通り魔事件の犯人。
 それが、直感でわかった。
 師匠。こいつはだめだ。
 足が震えて、涙が、涙腺の奥から湧き出てくる。
 こいつは、無理だ。
 生身の人間に、どんな心霊スポットでも味わえないほどの恐怖を覚えた。チリチリとうなじの毛が焼けるような、そんな恐怖を。
「お、おまえこそ、なんなんだ」
 そんな言葉が、喉から自然と漏れ出た。自分でも驚いた。恐怖は麻痺してはいない。ただその奥から、別の感情が湧いていた。
 これが、オカルト・ハイってやつか。ブレーキペダルの100分の1しかない大きさのアクセルを、わざわざ踏んだようなものだ。
 レインコートは、首を少し傾け、考えるような素振りをみせた。そうしてゆっくりと口を開いた。
「敵になるか、どうかは、わからない。それを見極めたときには、わたしは…… 犬死だ」
 いぬじに。たしかに聞こえた。
 レインコートはフードをずらしながら、まっすぐこちらを向いた。下げられたフードの奥の素顔が、雨の筋の向こうに見える。
 短く切りそろえられた前髪が濡れて、額に張り付いている。右目のあたりを、大きな引き攣り傷が覆っているのが見えた。右目は完全に潰れていた。鼻梁が高く、整った顔だちをしていたので、その部分が余計に目立って見えた。
 僕は、正体不明だった相手の顔を見たことに興奮していて、自分の顔も相手に見られたことを完全に失念していた。
 傘を握る手が緊張した。今、この傘を振り下ろし、フードの奥の顔を叩けば……。
 僕のそのわずかな殺気を、塗りつぶすようなドス黒い害意が、周囲を包んだ。空から落ちる雨のその1粒1粒が、その濃密な空間でゆるやかに動いている。
 邪魔をするな。
 邪魔をしなければ、わたしは犬死だ。この街を……。
 レインコートの人物は呟きながら、手袋をした右手で、フードを掴んで下ろし、顔を背けた。そして、ゆっくりと車の流れと反対方向へ歩き始めた。
 僕は、その姿を見送ってから、自分が息を止めていたことに気づいた。
 ハァッ、ハァッ……。
 思わず座り込みそうだった。濡れた靴の先を見つめて、これが現実だったことを確認する。
 わたしは…… いぬじにだ。
 どこか文脈に沿わない、その言葉が頭のなかでガンガンと大きな音を立てて、リフレインされていた。



「やつに会った?」
 僕はその日の夜、師匠の家で報告をした。
『おまえこそ、なんなんだ』と、言ってやったことを、特に強調して。
 言ったった! 言ったったんです!
 喉元過ぎれば、というやつで、あれほど恐怖に慄いた体験だったというのに、師匠の前では強がって見せたのだった。
「弓使いか。目撃証言と背格好は一致するな。なにより、おまえをつけていたってところが、ピンとくる」
「なぜですか」
「私だと、隙がないからな」
 師匠は腕組みをして、さも納得したように頷いている。
「それにしても、完全にこっちはマークされてるな。最初に緒方をつけ狙ってたときは、殺気を出しっぱなしだったのに、私たちに気づいてすぐに引いただろ。次に緒方の雑貨屋で襲撃してきたときは、直前まで殺気を消していた。今日に至っては、背後を取るまでまったく気づかせなかった。こいつは手ごわいぞ」
 手ごわいってことは、その背後を取られた僕が一番感じている。思い出して、だんだん涙が出そうになってきた。
「今もいるんじゃないか」
 師匠はそわそわして、アパートの玄関から顔を出して外を伺った。
 うなーん、と師匠に懐いている野良猫が部屋に入ってこようとして、「しっしっ」と追い払われていた。
「殺気ってな、2種類あるんだよ」
 師匠はあぐらをかきながら、そう言った。
「こういう……」
 キッ、と鋭い目つきで睨みつけきた。身体は重心が前掛かりになって、今にも襲い掛かってきそうな感じを漂わせている。
「視覚的にわかるやつとな。あと1つが……。おい、あっち向け」
 師匠は僕に壁のほうを向かせた。
「こんな、やつだ」
 師匠はそう言って黙った。僕は壁を見つめたまま、じっとしていた。いったい師匠はなにをやろうとしているのだろう。ちょっと振り向いてみようか。そう思った瞬間、背中に、刃物がつきたてられたような感覚があった。
「あっ」
 と驚いて、とっさに振り返って壁を背に身構えた。
 師匠は、さっきと同じ格好であぐらをかいたままだ。背中に手をやってみても、刃物など刺さっていない。
「なんですか、今の。どうやったんですか」
「目に見えない殺気を出したんだよ」
 師匠は原理を説明してくれた。
「いいか。目の前の人間を殴りつけるつもりで、じっと見るんだ。これから繰り出すパンチの軌道を、リアルにイメージする。そのイメージがマックスに高まって、もう殴る、って瞬間に、身体だけは動かさないでいる。実際に殴るときの運動神経の伝達物質を、ギリギリでフェイクに切り替えるんだ。これをひたすら練習していると、自分でも完全に殴った! って思っても、なぜか身体が動いていない瞬間がくる。その境界が曖昧になってきたら、こっちを見ていない相手にも、殺気が伝わることがある。幽体離脱みたいなもんだな。相手次第だ。鈍感なやつなら、こっちが完璧にこなしても、なにも感じないだろう」
 うなーん。
 玄関のドアの外で猫が鳴いている。師匠はそちらを見つめ、短く呼吸を繰り返している。
 次の瞬間、猫はフギャギャーッと叫んで、逃げていく音がした。
 僕には、隣にいる師匠が立ち上がって、ドアを蹴るという映像が、現実の光景と一瞬重なって見えた気がした。
「か、かわいそうですよ」
 僕がそう言うと、師匠は「あいつ、こないだ暑くて窓開けてたら、晩飯の焼き魚くわえて逃げたからな」
 武道の達人が至る境地も、こんなものなのだろうか。
 僕は目の前の師匠が、ますます現実の世界と異なる場所へと、足を踏み出したような気がして、目の前が暗くなった。
「あの『弓使い』が出している殺気は……。あれは異常だ。人間というより、悪霊とか、殺気そのものの存在が出しているような、そんなレベルだ。あれは本当に人間なのか?」
 師匠は何度か繰り返したそんな自問を口にした。
「噴き出すイメージが、他人の現実まで侵食している。あれに捕らわれたら、人間はどうなる?」
 ぶつぶつと言う。
「邪魔をするな、って言ってましたよ」
 一応、もう一度言ってみる。こんな脅しでやめる師匠ではないのは、重々承知しているが。
「そういえば、変なことを言ってたな。なんだっけ。邪魔をするな。邪魔をしなければ、わたしは犬死だ、って言ったんだったか」
「はい。あと、おまえたちの敵になるかどうかは、まだわからない。それを見極めたときには、わたしは犬死だ、って」
 思い返しても、よくわからない言葉だ。肯定的な表現のあとで、犬死というネガティブな言葉がくる。文脈が変だ。単に凄く弱気、ともとれるが。
「犬死。……犬死ねぇ。なんで死ぬんだ?」
 師匠は顎を右手で押さえて、首を傾げている。
「もう1回再現してくれ」
 師匠のリクエストで、僕は立ちあがった。隣には、傘をさす振りをする師匠。
 あのバス亭でのやりとりを、できるだけ忠実に繰り返した。
 邪魔をするな。
 邪魔をしなければ、わたしは犬死だ。この街を……。
 最後は聞き取れるかどうか、という声でぶつぶつと言って、フードを深く被るポーズを取って、傘をさす師匠に背中を向けた。
「こんな感じですけど」
 振り返ると、師匠の目が輝いている。
「この街を、浄化する」
 師匠は叫んだ。
「そう言ったんだな、おまえは」
 師匠は、僕には聞こえなかった最後の言葉を、見えない相手に向かって叫んでいた。
「犬死じゃないぞ」
 僕の肩を両手で掴んで、揺さぶった。
「えっ、なんですか。どういうことですか」
 戸惑う僕に、師匠は笑って言った。
「イヌジニ、じゃないんだ。そいつは、イヌジニン、って言ったんだよ」
 どうだ。
 そんな顔で、師匠は僕を見つめていた。



 次の日は晴れだった。ようやく雨模様もひと段落といったところか。僕は師匠につれられて、JRで2本西に行ったところにある町に向かった。
 2人とも背中にバットケースを担いでいる。草野球でもしにいく途中、という風情を出すために、お揃いの野球帽まで被って。なお野球帽は師匠の趣味で阪神のものだ。
 師匠のバットケースには愛用の金属バット。そして僕のバットケースには脇差が入っている。春に刀剣愛好家の依頼を受けたときにもらった、保存鑑定書つきのやつだ。
『邪魔をするな』
 すでに数人を殺傷しているかも知れない相手から、そう警告を受けたので、護身用として持ち歩くことになったのだ。
「こういう持ち歩き方をすると、脇差が痛むんですけど」
「じゃあ腰に差していくのか」
「即、職質受けますよ」
「なら仕方ないじゃないか」
 背に腹は代えられないが、そもそも、こうでもしないといけない恐ろしい相手に、まだちょっかいを出そうとしているのが正気の沙汰じゃない気がする。
 だいたい、弓を使う相手に、金属バットと脇差で対抗できるのだろうか。なんかこう、盾的なやつのほうが良くないか?
 ぶつぶつ言いながら師匠のあとをついていくと、古い日本家屋が並んでいる通りに、その家はあった。『宮内』という表札がでている。
「やあ、いらっしゃい」
 迎えてくれたのは、短く刈り揃えた白髪の男性だった。黒縁眼鏡をしていて、柔和な印象を受けた。
「退官してから、めっきり人が尋ねてこなくなってね。研究室の学生たちなど、ついぞ顔を見ない。冷たいもんだ。顔を見せにくるのは、ゼミにいたわけでもない、君くらいだ」
 宮内氏はそう言って、僕らに座布団をすすめた。書斎は本だらけだ。そこらじゅうに散らばった本屋や雑誌を少々整頓しないと、座る場所の確保も難しいありさまだった。
「そうだ、お茶、お茶。こないだのあれは、どこにいったっけな」
 宮内氏は書斎と地続きになりかけている台所で、しばらくガサゴソとやっていたかと思うと、ようやくお盆に3人分のお茶を乗せて戻ってきた。
「女房にようやくあいそをつかされてな。まあ、よくもったほうだと思うよ」
 宮内氏はうちの大学の元教授で、日本史研究室に所属していた人だった。3年前に退官してからは、郷土史家という肩書きで、好きな研究を続けているらしい。
「ほう、イヌジニンか」
 そう言って立ち上がり、ダンジョンのようになっている本棚から、1冊の大きな本を取り出した。そうして、あるページを開いて、僕らの前に広げた。
『洛中洛外図』とある。
 説明を読むと、京都の祇園祭の神輿の行列を描いたものらしい。
「これが、イヌジニンだ」
 指さすところを見ると、神輿の先頭で棒を持って歩いている6人の男がいた。甲冑を身につけ、頭には白い布を巻いている。
「神の人と書く、神人(じにん)は、神社に仕えて雑役を行う、寄人(よりうど)のことだ。なかでも祇園社などの大社に仕える神人のなかには、犬神人(いぬじにん)といって、境内や道々の死穢を清掃する役目を与えられた人々がいた。彼らはまた、祭礼の警護を割り当てられ、こうして神輿の先駆けの役を行うこともあった」
「穢れに触れる仕事…… 武家社会における非人の役割ということですか」
「まあ大雑把に言うとそうだな。犬神人のことをツルメソと言ったりもする」
「つるめそ、ですか」
 じっと聞いていた僕は、その響きが面白くて口を挟んだ。
「彼らはまた、弓の弦(つる)をね。売り歩いたんだ。そのときの掛け声が、弦召せ〜、弦召せ〜って。転じて『弦召そ(つるめそ)』」
 弓……。
 ここ最近のキーワードがここにも出てきて、ドキリとする。
「で、先生。今日お伺いしたのは、京都の犬神人のことではありません。このO市で、犬神人と呼ばれていた人々のことです」
「ほうほう。よく知っとるなあ。大したもんだ」
 うんうん、と頷きながら、宮内氏はまた本棚のダンジョンから本を抜き出してきた。古い郷土史のようだ。
「O市では、古来より二条神社が中央にデンと構えていて、神職以外でも、その神域にたずさわる職業がいくつかあった。そのひとつが、この犬神人(いぬじにん)だ」
 本には、白黒の写真で、法師のような格好をした人物が弓を構えている様子がうつっている。周りには、にぎにぎしい和装の人々が遠巻きにそれを見ていて、神主らしき人もいる。
「洛中の犬神人との関連はよくわかっていないが、このO市でも似たような役割を果たしていた人々がいたんだな。洛中と少し違うのは、こうして弓をもって穢れを払う、より洗練された職能を持っていた点だ」
 どうやらその古い写真は、神社の祭りの始まりに際して、穢れを払う神事を執り行っているところらしい。
「戦後、二条神社の大祭が縮小していくなかで、犬神人の役割も終わった。たしか、20年くらい前に記念の祭りがあったときに、穢れ払いの弓神事が催されたのが最後だと思う」
 写真はあったかな。と呟きながら、宮内氏は雑誌が詰め込まれた書棚を引っ掻き回し始めた。
「先生。その我がO市の犬神人ですが、京都と同じように、死骸の清掃を行うこともあったんですか」
 結局写真は見つからなかったようで、宮内氏は残念そうに首を振った。
「O市の二条神社周辺で、死穢の掃除をしていたのは、犬がつかない、神人(じにん)だ。犬神人は、あくまで弓を使う、穢れ払いの職能集団だった」
 そこで宮内氏は急に声を潜めた。
「いいかね。これはちょっと怖い話だがね。彼らは近代以前、弓を持って、神社支配地を練り歩き、あることをして回っていたと言われている」
 …………。
 その話を聞いて、師匠の顔色が変わった。僕もゾクリとした。師匠は、警察がたどり着けなかった、弓矢での連続殺傷事件の犯人に、通常の捜査とは全く違う方向から、たどり着こうとしていることが、わかったのだった。
「先生。その、20年前に弓神事をしたのはだれか、わかりますか」
「ああ、わかるとも。鳥井博一(とりい ひろかず)さんといって、今はいくつになられたかなあ。80歳にはなってないと思うが。私が以前調査したときには、この犬神人の一族で今も家系が残っているのは、この鳥井さんの家だけだった。鳥井流、という弓術を代々教えている。今もご壮健のはずだよ」
 古くからの知り合いだと言うので、師匠は無理を言って、面会のアポイントを取ってもらった。
 宮内さんの教え子のかたなら、ということで、さっそく明日訪問させてもらうことになったのだ。
 お礼を言って、宮内氏の自宅を辞去する際に、師匠はふと思い出したように言った。
「そう言えば、先生。先週だったか、東のほうで、馬塚の遺構が見つかったっていうニュースがありましたよね。ご覧になられましたか」
「ああ、あったね」
「あの映像で、チラッと映っていた剣があったでしょう」
 宮内氏は、そこで今日はじめて不快そうな表情をした。
「ああ」
「あれは、『馬霊刀』ではないでしょうか」
「さて」
 快活だった口調が、鈍った。
「引退してからは、余計なことは言わないようにしているんでね」
 師匠はそんな宮内氏の様子を、じっと見つめながら言った。
「あの発掘で説明していた人は、埋蔵文化財センターの人ですか」
やがて宮内氏はバツが悪そうに口を開く。
「三島君はね、少々軽率なところがあるよね。ま、怪力乱神を語らずってね、くわばらくわばら」
 それから、宮内氏は引退した身だから、という言い訳めいたことを繰り返して、僕らを送り出した。
 僕は最後の宮内氏の様子に、納得のいかないものを感じながらも、師匠がそれなりに満足げだったので溜飲を下げた。
 帰り道、「馬霊刀って、なんですか」と訊いてみたが、師匠からは返事はなかった。やはり納得していないらしい。
 つくづく、探偵体質だね。
 僕はため息をついた。



 翌日、待ち合わせの時間に師匠は、わたあめを食べながらやってきた。まただ。いつもどこで、このわたあめを手に入れているのだ。僕の知る限り、この周辺にいつでもわたあめを買える場所はない。師匠の7不思議のひとつだった。7つどころじゃないけど。
「どこで買ってるんです、それ」
「うん」
 また生返事だ。
「で、手に入れた?」
「はい」
 僕は師匠に頼まれていたものを差し出す。
「ふうん。世帯主は鳥井博一。妻、敏子。長男、正太。長男の妻、英子。長男の長男、正和、か」
 頼まれていたのは、鳥井家の住民票だった。どうやって手に入れたかは、ちょっと言えないやつだ。これもこの興信所業界に足を突っ込まなければ、知ることのなかった手口だ。
「なんだ。戸籍もO市なら、戸籍謄本も取ってこいよ。気が利かないな」
「出がけに急に言うからでしょ。戸籍のほうは高いんですよ! お金が足りなかったんです。立て替えた住民票の写しの代金も、経費で返ってくるんでしょうね」
「経費? これは別に小川調査事務所の仕事じゃないぞ」
 えっ。
 これ、自腹かよ。
 僕は呆然として、ニヤニヤしている師匠を見つめた。
 そりゃあ、たしかに僕が好きで手伝ってるだけですけど。
 ぶつぶつ言いながら、大学の構内から自転車を発進させた。後ろに師匠を乗せた2人乗りだ。師匠は後輪の車軸に足をかけた、立ち乗りである。
 そして今日も、僕らは護身用のバットケースを持っている。師匠のほうはともかく、僕のは職質されたらアウトなので、ドキドキしっぱなしだ。
「そういや、おまえ、単位は取れてるのか」
「まあ、ぼちぼち」
 これだけ師匠につきあっていたら、果たして卒業まで何年かかるのだろうか。最近ちょっと、将来が不安にならないでもない。とりあえず、1留でおさめたいとは思っている。
「30歳にはならないように」
「ずいぶん気が長いな」
 いや、あなたの年齢がですね……
 そう言おうとして、もごもごした。
 自転車をこぐこと20分あまり。駅前の大通りを東へ東へと進み、古い民家の立ち並ぶ、元の城下町のあたりにたどり着いた。
「鳥井。ここだな」
 師匠が大きな門についた表札を読んだ。なかなか立派な日本家屋だ。
 門にあったチャイムを鳴らしてしばらく待つと、右手側にあった木戸が開いて、背の高い老人が姿を現した。
「どうぞこちらへ」
 案内されるままに木戸をくぐると、その先には石畳が続いていて、奥に大きな道場のような建物があった。道場の玄関は、家の前の角を曲がったところにあったらしい。
 道場のなかに入ると、建物が半分切り取られたようになっていて、屋根がないほうには、運動場のような土の地面が伸びていた。その向こうには、砂が盛られていて、目玉のようにグルグルとした模様の的が据えられている。
 道場の板の間で、座布団をすすめられて、僕らは座った。
 向かいの老人は袴姿で、座布団もなしに正座をしている。背筋がピンと伸びていて、身体の正中線に鉄の芯でも入っているかのようだった。
「鳥井です」
 鳥井博一、78歳。世帯主。住民票の記載ではそうなっていた。
 師匠は、郷土史のフィールドワークをしている学生で、宮内元教授から紹介を受けての来訪であることを告げた。
「昔は、宮内さんもよくいらっしゃってましたよ」
 痩せぎすではあるが、にこりと笑う姿は、年齢を感じさせない爽やかだった。
「犬神人だなんて、今では知る人もほとんどいない名前です。先祖代々、二条神社の聖域をお守りしてきたこのお役目も、私の代で終わりでしょう。いえ、もう終わっているのでしょうね」
 寂しげな口調ではあったが、表情はさほどではなかった。すでに自分のなかで消化し終えたことなのだろうか。
「この弓道場も、先細りでしてな。若い人には弓道自体、人気がないようで。今では古くからの門弟が数人いるだけです。私の子どもの時分には、ここいらにも賭け弓をする賭場がありましてな。この道場も、賭けに勝てるよう、腕を上げたい不心得者たちで賑わっていたものですが」
 鳥井流の看板も、もう近々下ろすつもりです。
 鳥井氏は静かにそう告げた。
 師匠は、かつての犬神人が執り行ったという、穢れ払いの儀式のことを訊ねた。
 道場の壁に掛かっていた大きな弓を手に取って、鳥井氏は僕と師匠のためだけに、かつての弓神事の作法をいくつか見せてくれた。
 ゆったりとした動きのなか、祈りの言葉をあげながら、鳥井氏は数歩歩いては弓を引き、また数歩歩いては弓を引く、ということを、3度、4度と繰り返した。
 いずれも矢はつがえなかった。
「弓の音です。この音で魔を払うのです」
 それが犬神人の作法なのだという。
 ビンッ…………。
 鋭い音が空気を振るわせるたびに、なにか引き締められるような、そんな感じがした。
「大昔は、矢も使ったと聞いていますが」
 師匠が口にしたその言葉に、鳥井氏の顔色が変わった。
「宮内さんが、おっしゃっていたのですか」
 鳥井氏は、弓を引いた姿勢のまま、厳格な口調でそう訊き返した。
「平安、鎌倉、室町…… かつての日本では、空き地や側溝、そのへんの道端に死骸が転がっている風景が、当たり前でした」
 師匠は老人の横顔に話しかける。
「墓を作る財力のない人にとって、そうした路辺や河原などに死体を遺棄する、風葬、遺棄葬は一般的な行為でした。また、乳幼児などは、高い身分の家の子女であっても、まだ『人』とみなされず、遺棄葬をされるケースもあったようです。もちろん、行き倒れた者も、弔われることもなく、その死体は雨ざらしのままです。その死体が土に還る前に、掃除される場合もあります。豪族や貴族など、高貴な家柄の人が通るときや、神社の大祭があるときなど、道々の穢れを払う必要がある場合です。京都などでは、神社地でそうした死体清掃を行う、犬神人と呼ばれる人びとがいました」
 ビンッ…………。
 静止していた弓が、そのしなりを運動エネルギーに変えて、力強く跳ねた。鳥井氏の鋭い視線は、屋外に構えられた的のあたりに向けられたままだった。
「そしてこの街にもまた、犬神人と呼ばれる人びとがいました。京都のそれと違うのは、より、穢れ払いという儀式性に特化された集団だった、ということです。京都の犬神人は、つるめせ、つるめせ、と弓の弦を売り歩いたそうですが、この地の犬神人は、市中を歩く際、弓と、矢を持っていました」
 僕は、ハラハラしていた。明らかに、鳥井氏は気分を害している。そして師匠は、それをわかっていて、なお火に油をそそごうとしている。
「二条神社の神域を守るため、穢れ払いを行うためです。しかし、彼らは、死体清掃で手を汚すわけではありません。彼らが払う穢れは、遺棄された死骸そのものではなく、そこから発生する、二次的な『ケガレ』…… つまり、悪霊です」
 鳥井氏は、構えを解いた。身体から力みが消え、ただ立って、僕らのほうを向いた。そして先を促すように頷いて見せた。
「死後、道端にさらされた遺骸が、世を恨み、他者に祟りをなす悪霊を生ずる前に、この地の犬神人は、弓矢で穿ったのです。その骨を。……クロノス衝動、という言葉があります。遥か過去、アウストラロピテクスなどの初期の人類から存在した、遺体を破損する行動原理のことです。埋葬をする意図ではなく、遺体をただ切断し、分割し、石でつぶす。近親者などによる儀礼的なカニバリズムもまた、人類の初期から存在するクロノス衝動の1つです。石片で傷をつけられた人骨は、世界中で見つかっています。人は怖いのですよ。死が。いまだ経験しない、自らの死が。怖くてたまらないから、死を、さまざまな角度から『発見』するのです。犬神人の撃った矢は、遺骸を穿ち、骨に傷をつけました。その刻印は、穢れを払い、遺骸から悪霊を生じさせない、聖なる印です。穢れ払いの名の下に、弓に矢をつがえ、市中を歩くことを許された集団。それが儀式化される前の、本来の犬神人の姿です」
 師匠は最後まで淡々と説明した。昨日、宮内先生に聞かされた話は、ここまで詳しくもなかったし、辛らつでもなかった。師匠は、自らの知識で補足して、類推して、それを鳥井氏に、かつての犬神人の子孫に、ぶつけたのだ。
「古い話ですよ。……私にも本当のところはわからない」
 鳥井氏は壁に掛けられた、いくつかの弓を順に見上げた。一番高い位置にある弓掛けだけが、ぽっかりと中身が空いている。その上には神棚が設えられていた。
 老人は目を閉じて、ゆっくりと首を振った。
「いずれにしても、そんな名前は、私の代で終わりです。息子も、その子どもも、弓などに興味を持たなかった。この道場も、もう閉めます。わが家では、だれも弓を持つことはないでしょう」
 さて、そろそろ私も疲れました。
 鳥井氏はそう言いながら、右手で自分の肩を揉んだ。
「この年では、弓を引くのもひと仕事でしてな」
「あ、そろそろ、おいとまします」
 僕は空気を読んで、そう言った。
 本当はちょっと、どんなものか弓を引かせてもらいたかったが、仕方がない。明らかにもう潮時だった。
 腰を浮かせ、道場の隅に置いていたバットケースを手に取ったとき、まだ座布団の上にどっしりと座ったままだった師匠が口を開いた。
「去年の冬から世間を騒がせている、弓矢を使った連続通り魔事件をご存知ですか」
 ビシリ、と空気にヒビが入った。
 老人の目つきが再び鋭くなっていた。
「ありましたかね。それがなにか」
 このタイミングでそれを口にするということは、犬神人の子孫である、というだけでこの人を、通り魔扱いするのに等しい。いくらなんでも面と向かって言うなんて、失礼過ぎる。
 僕は師匠を止めようと、師匠のバットケースを抱えて、乱暴に差し出した。
「もう、おいとましましょう。ね」
「うるせぇ。なんのためにここに来たんだ」
 師匠はバットケースを振り払い、なおも老人に食い下がった。
「犯人に、心当たりがあるんじゃないですか」
「さて。あれは洋弓ではなかったですかな。私にはさっぱり心当たりもありません」
「いえ、洋弓、ボーガンではありません。和弓ですよ。世界最大の弓である、和弓の雄大さ。それこそが、この事件に相応しい形です。穢れ払いには、和弓こそ相応しいのです」
「かえれっ」
 突如、老人は一喝した。
 僕は心臓が飛び出るかと思った。
「もう出て行きなさい。」
 口調を改めたが、態度は硬直化していた。
 師匠はしばらく老人と睨みあっていたが、やがて腰を上げた。
「私は、本当は宮内先生の教え子でありません。ウソをついて紹介してもらっただけです」
 僕からバットケースを受け取りながら、師匠はそんなことを言った。鳥井老人を怒らせてしまったので、紹介してくれた宮内氏への配慮なのだろう。
「怪物と戦うものは、自ら怪物になることを畏れなくてはならない」
 道場から出るとき、師匠は、ニーチェの言葉を口にした。険しい顔で腕組みをして見送る、鳥井氏には聞こえなかっただろう。それは、犬神人の一族のことを言ったようだった。けれど僕には、師匠が自らに言い聞かせている言葉にも聞こえたのだった。


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