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『館』 上

Pixiv
潮騒を聞いている。
暗い海がその向こうにある。
空には一面の星。水面にはその欠片が揺れている。
春はようやくやってきたが、夜はまだまだ肌寒い。
「最後の1本だ」
何度目かになる言葉のあと、マッチの明かりが一瞬、海辺の闇を深くする。
煙草の匂いを嗅ぐことで、脳裏にはその匂いと結びついた記憶が滔々と湧いてくる。
いろいろな話をした。
いろいろなところへ行った。
別の世界へと通じているかも知れない扉を開けて。彼女との冒険も今日で終わり。終わり。終わり。
俺は彼女の横顔を見る。
彼女は夜空を見ている。
さっきのホテルでのことが蘇りかけて、頭を振る。
岸壁に2人腰掛けて、とりとめもない話をする。
こんな時間もいつか終わる。
「なあ、知ってる星座はあるか」
煙草を持った手が空を指す。
空に散りばめられた光に目を凝らしたけれど、星と星とを繋ぐ線は見えなかった。
「ありません」
オリオン座ならわかるんだが。あれは冬の星座だ。
「こんなとき、星座の話のひとつやふたつでもサラッとできれば、ロマンティックなのにな」
「すみません」
今度覚えよう。
そうして沈黙がやってくる。岸壁を撫でる波の音が大きくなる。煙草の吸殻を靴で踏むときの、赤く小さな火花が転がるのが見えた。
「あいつも、どんな気持ちで夜空を見ていたんだろう」
遠くを見るような声でそう言った。
「知らない星を」



京介さんから聞いた話だ。


「なんでそうなるんだ。第7室には太陽しかいないのに」
「よく見なさい。第1室に火星が入っているでしょう。オポジションで凶相よ。この場合は配偶者に、あなたとは別の男女関係が生まれやすいことを示しているの」
「これが180度か? ちょっとずれてるじゃないか」
「何度説明したらわかるの。メジャーアスペクトのオーブは広いの! これは5度だから範囲内よ」
おばさんが机を叩く。
私は机の上の紙を睨みつけている。12個に切り分けられたケーキのような形が描かれている。
ホロスコープというやつだ。西洋占星術で使う、自分の生まれた瞬間の星の配置を表したもの。
その星の配置がその人の人生を支配するというのだ。
「あー、だめだ。頭が煮えそう」
私は鉛筆を放り出して頭を抱えた。
目の前の紙の上に、私の人生のすべてがある、なんて言われても、どうやってそれを読み解いていくのかのハードルが高すぎる。
タロット占いなら、引いたカードの配置でその人の、そのときどきの、かつ特定の分野のことを自在に占うことができるのに、西洋占星術は基本的に、定められたその人の人生をただ解き明かしていく作業だ。
考えてみれば恐ろしい。これは恐ろしいことだ。知れば知るほど、そのことがわかってくる。
「休憩しましょうか。紅茶淹れてあげる」
おばさんが小太りの体を揺すって立ち上がる。その後ろ姿を見ながら私はため息をついた。
アンダ朝岡という名前のこの占い師と出会ったのは、今年の夏のことだった。街中を襲った不気味な怪奇現象を追っていた私は、その先で4人の人物と出会った。全員が、私と同じようにその怪奇現象の根源を追っていた。
この街のなかでたった1人、私だけが気づいていて、だからこそ私がなんとかしないといけない。そう思っていた。
しかし、この街で昼ひなかにお互いにすれ違っても気づかないけれど、その日常の仮面の下に、非日常の世界を見通す目を秘めている人々がいたのだ。私のほかにも。
そのことが、なぜか嬉しかった。
『今度会ったら、タダで占ってあげるわよ』
偶然街ですれ違ったとき、その夜に交わした約束を彼女は覚えていた。
「あら、あなた」
50年配の女性にいきなり声を掛けられて、とまどったが、すぐに思い出した。けれどそれは相手の顔を思い出しただけだった。なにしろお互いに名前も知らなかったのだから。
2人で苦笑して、あらためて自己紹介をした。
彼女は《アンダ朝岡》と名乗った。聞いたことのある名前だった。地元の情報誌で星占いのコーナーを持っている人だ。その星占いは、街に迫りつつあったその怪奇現象に、私が気づくきっかけにもなっていた。
いま時間あるでしょ、とアンダ朝岡は言って、無理やり私を自分の店に連れていった。
『アンダのキッチン』
そんな名前の、駅に近いビルの1階のテナントに入っている、小洒落た店だった。まるで喫茶店のような店構えだったが、実際に軽食を注文して、それを食べてリラックスしながら占いの相談をする、という珍しいスタイルだった。
料理が上手いのか、占いが上手いのか、あるいはその両方なのかわからないが、とにかく結構流行っている店らしかった。
アンダはタロットなどの占いもするけれど、西洋占星術がメインだった。しかしそのタロットにしても、私がかじっている知識よりはるかに詳しい。さすがにこの道で食べているプロだな、と思う。
再会したその日は、私のことを占う、というより、占いに興味を持っていると言った私に、あれこれとアドバイスをしてくれた。
ただの客としての対応とは明らかに違っていた。私を見つめるその優しげな瞳には、秘密を共有する仲間としての親しみが込められているような気がした。
「また遊びにいらっしゃい」
帰るとき、そう言われた。紅茶の風味が口のなかに甘く残っていて、また来てもいいな、と思った。
それから、2度、3度と店に顔を出していると、いつの間にか私は彼女の教え子になっていた。
後継者などというつもりは毛頭なかった。ただ自分の知らない西洋占星術という占いに興味を持ったのだ。トランプやタロットを使った神秘主義的なものとは違う、ホロスコープという生涯変わることのない出生時の星の配置……つまり運命の地図が、まず面前に示されるという、その潔さに、逆に途方もない奥深さを感じていた。
私は学校帰りに時間をつぶしたあと、『アンダのキッチン』が閉まる午後7時過ぎに顔を出し、客のいなくなった店内でいろいろなことを教えてもらう、という日々が続いていた。
「なあ、アンダ。これって、どういうことなんだ」
ある日、ローカル情報誌を広げてアンダを問い詰めた。
アンダが担当している星占いのコーナーだ。店と同じ、『アンダのキッチン』というコーナー名だった。
よく見るものと同じく、おひつじ座から始まる12星座ごとに、その月の運勢を占ったものだ。
以前の私は、素直に自分の誕生星座のところを読んでいた。あるいは、気になっている相手のところを。
しかし、西洋占星術をちゃんと習っていくと、こういう星占いとはまったく別物だということに気づいてきた。
まず第1に、西洋占星術ではホロスコープの起点となる第1室の支配星座は、その人が生まれた瞬間に東の地平線にあった星座なのだ。これを上昇宮(アセンダント)と言って、その人の本質を読み解くキーとなっているものだ。
私はみずがめ座のはずだったが、アセンダントを調べると、ふたご座だった。
今まで星座別の性格占いで、みずがめ座の欄に『常識やモラルに捉われない。推理力、洞察力に優れ、クールで気ままな性格』などと書いてあるのを見ては、当たっている! と思っていたのに。
しかし私が習う西洋占星術では、生まれた瞬間の太陽の位置を第1室に置くやり方はしなかった。
サン・サイン占星術といって、太陽の位置を起点にするやり方もあるらしいし、誕生日はわかっても、生まれた時刻がわからない場合に太陽を第1室に置くやり方もあるのは習ったが、アンダの西洋占星術では、明らかに太陽星座を重視していなかった。
まして、ホロスコープは、言わばその人の人生の地図のすべてであって、今月の運勢やら今週の運勢やらといった、狭い範囲を言い当てるものではない。
そういうことがだんだんとわかり始めて、あらためてあの星占いコーナーとの矛盾に気づいたのだ。
「なあ。なんでこんな適当なことばっかり書いてんの」
私が情報誌を突きつけると、アンダはしばらく黙ったあと、にっこりと笑って言った。
「お坊さんがね。檀家さんに『昨日の夜、死んだ父が枕元に立ってこんなことを言うのです』って相談されたら、『それはあなたを守るために、心配しておっしゃっているのですよ』って言うでしょう。でもお釈迦様の教えでは、人間が死んだ後には霊なんかになってこの世にさまようなんてことは、言ってないの。でもその理屈を説いて、あなたが見たのは幻だ、錯覚だ、なんて言ってもその人は納得するかしら。そういうことの専門家だと思い込んで相談しにきているのに。そんなときに、相手に合わせてあげて、返事をすることを、なんて呼ぶか知ってる?」
「知らない。なんだ?」
「方便よ」
なんだそりゃ。
うそも方便ってやつか。
「ようするに金儲けのために、でたらめをでっちあげてるんだろう」
「でたらめじゃなくて、ほ・う・べ・ん」
アンダは指を立ててゆっくりと訂正した。
「これでも、ちゃんと私なりに研究してやってるのよ。方法は企業秘密だから、教えてあげないけど」
納得はいなかなかったが、それでも店では一貫してストイックな占いの手法を守っているようだった。
アンダはよく、自分のホロスコープを例にして私に説明してくれた。
「私のアセンダントはおひつじ座にあるけど、ルーラー(支配星)はなにかしら?」
「火星」
「そう。その火星が第8室にあるでしょ。セックスや死を司るハウスに、マレフィック(凶星)の火星があり、損なわれているということ。そしてこの火星が、さらに別のマレフィックの土星とスクウェアで、凶相を成しているわ。これは短命の相よ。さらに第8室のルーラーの冥王星が、マレフィックの天王星とオポジション。海王星とセミスクウェアよ。これがどういうことかわかる?」
ひどいな。
顔をしかめたら、アンダは「そうね」と言って続けた。
「天寿をまっとうする自然死ではないわね。間違いなく。せめてもの救いは、第8室がカーディナル・サイン(活動宮)じゃなくて、フィックスド・サイン(不動宮)だってことね」
「ええと、その場合は病院で死ぬとか、そういうこと?」
「少なくとも即死ではないと思うわ。だれかに看取ってもらえるなら、まだましね」
自分の死について、あっけらかんと語るアンダを見ていると、なんだか不思議な気持ちになる。自分で自分の西洋占星術を信じていない、というわけではないだろう。ただ、人の運命を、星の配置のなかに読み解くことを生業にしていると、そういう達観めいた心境に至ってしまうのだろうか。
数年前に起きた夫との死別という悲しいできごとまで、自分のホロスコープのなかに読み解いて説明をしてくれる彼女の横顔を見て、なんだか辛い気持ちになった。

学校の廊下で、間崎京子とすれ違った。
この高慢な秘密主義者は、あいかわらず私のかんに触るやつだったが、風のなかにだれとも知れない人間の髪の毛が混ざっているという、気持ちの悪いできごとのときに、図らずも一緒に組んでその謎を追ったりしていたせいで、このところ休戦状態にあった。
「よう」
そう言って通り過ぎようとしたら、向こうからそっと寄ってきて、打ち明け話をするように私の耳元に口を近づけた。
「最近、占いに凝ってるんですって?」
それを聞いてビクリとする。こいつはなぜそんなことを知っているんだ。
「どんな先生かしら。今度紹介してくださらない?」
「いやだ」
その言葉のあと、なにか理由をつけようとしたが、うまく出てこなかった。それが妙に気恥ずかしくて、とっさに出た言葉が「おまえ、何座だ?」という問いかけだった。
「あら、そういう占いなの」
間崎京子は興味を失ったような顔をした。
違う。そういう星座占いみたいな程度の低い占いじゃないんだ。
思わずそう言い訳をしようとしたが、(こいつに侮られることが、そんなに嫌なのか)ということに思い当たり、(だれが! 勝手に思ってろ!)と、我ながら天邪鬼なことを考えて、結果的に黙っていた。
すると間崎京子は、「私、星占いとか、占星術とか、好きじゃないのよね」と言いながら、両手を後ろに回して、すねたように足を蹴り上げる仕草をした。
「いいから、何座だ」
重ねて訊くと、くすり、と笑って言った。
「……くじら座」
なんだそれは。
何座かと訊かれて、「ヤクザ」と答えるのが、子どものころの定番ジョークだったが、これは、なんて中途半端な……。
「そうそう。今度、私の誕生日会をするの。あなたもご招待するから、きてね」
間崎京子はそう言って去っていった。
誕生日会?
あいつの?
そんなな女の子じみた行事に呼ばれるなんてことは、ここ数年なかった。しかも、あいつの?
その場に残された私は、痒くもない頭を掻きながら、立ち尽くしていた。
 
その日の放課後、アンダの店に寄ってから午後9時過ぎに家に帰ると、玄関に張り紙があった。
『ちーちゃんとまーちゃんへ。パパとママは、レストランでお食事をしてきます』
ずる賢そうな顔をした2人の似顔絵つきだ。母親が描いた絵だった。
妹のまひろはまだ帰ってきてないらしい。郵便受けにあった新聞とチラシを取り出してから鍵を開けて家のなかに入り、テーブルの上にそれらを投げ出す。
ふと、そのなかのチラシの文字に目が留まった。
『劇団くじら座』
地元の劇団の公演の案内チラシだった。そういえばたまに見る名前だ。
そう思った瞬間、昼間に間崎京子が言った変な言葉を思い出した。
『おまえ、何座だ?』
『……くじら座』
そうか。そういうことか。あいつも、そういう冗談を言うんだ。
なんだかおかしくて、声に出して笑ってしまった。
だれもいないリビングに自分の声だけが響く。
ひとしきり笑ったあとで、あのとき笑ってやらなくて悪かったな、と思った。



数日後、間崎京子は本当に私に招待状を持ってきた。誕生日会のだ。
11月20日。太陽星座なら、さそり座ということになる。私は一般的なさそり座の性格占いの内容を思い出す。
『排他的で秘密主義。嫉妬深く、執念深い。プライドが高く、洞察力、霊感に優れる……』
当たっているなあ。むしろこれしかない、という気もしてくる。やっぱり太陽星座でも十分当たるじゃないか。
そう思うと、こいつのアセンダント星座も知りたくなった。
「来てくださるかしら」
会場は本人の家となっている。
子どものころの記憶では、お誕生日会などと言って家に友だちを招待する子は、いいところの子どもだけだ。
間崎京子の家も一度見てみたかった。どういう環境でこいつみたいな子どもが育ったのかを。
「ほかにはだれが来るんだ」
「あとは私のクラスのお友だちが2人。あなたもお友だちを誘ってくれていいわ」
こいつの友だちということは、取り巻きの連中だろう。そんな完全アウェーに1人で乗り込んでいくのも、確かに気が引けた。
「考えとく」
そう答えると、間崎京子は嬉しそうに、「きっと来てね」と言った。
「なあ、おまえ自分が何時に生まれたか、知ってるか」
私は知らなかった。アンダの西洋占星術のホロスコープを作るうえでは、誕生時刻というのは必須の情報だった。
地球はぐるぐる自転している。誕生の瞬間の星の配置は、時刻によってまったく違ってしまうのだ。私はわざわざ母親に訊いて調べた。
私の問い掛けに、間崎京子はその場で生まれた日と時間をそらんじた。
朝6時か。これでこいつのホロスコープを作れるな。調べてやろ。
そう悪巧みをしていると、さっきの暗唱のなかに、おかしな部分があったことに気がついた。
生まれた西暦が、早生まれの私より2年古い。えっ、と思った。つまり1学年上なのだ。
「私、中学生のときに病気で1年休んだから」
「じゃあ、次で17歳の誕生日なのか」
なんだ。本当はイッコ上なのか。
やけに大人びていると思ったが、本当に年上だったとは。
驚いている私に、間崎京子は「じゃあ、きっとね」と言って去っていった。
私は思わず「ああ」と答えていた。



11月20日はあっという間にやってきた。
なかばなりゆきで、行かざるを得なくなった感もあるが、とにかく私は京子の誕生日会に行くことにした。
悩んだ末に、一応友だちを誘ってみた。クラスでも浮き気味の私にとって、友だちと言えるのは高野志保という名前のクラスメートだけだった。
志保は物静かで目立たない子で、私の乱暴な態度や言葉づかいに怯えながらも、いろいろと心配してくれるやつだった。
特に間崎京子に関しては、今年の夏の初めにあった、ある事件のせいで、かなり過敏になっていて、その魔女のような女に深く関わろうとする私を、そっとたしなめる役目を果たしてくれていた。
なるべく気軽な感じを装って誘ってみたが、案の定、高野志保は「行かないほうがいい」と反対した。
「危ないよ」
真剣な表情でそう言うのだ。
危ないって……。
「おいおい。ただのお誕生日会だぞ」
そう言って気軽さを強調しようとしたが、志保の耳には入っていないのか、しばらく俯いていたかと思うとキッ、と顔を上げて、
「わかった。ついてく」
と決死の覚悟を決めたような表情で言うのだった。
なんだか私まで怖くなってくる。
20日は金曜日だったので、放課後、寄り道せずに家に帰ると、すぐに着替えて京子の家に向かった。途中待ち合わせたスーパーで高野志保と合流する。
志保はバレー部だったが、今日はさぼったらしい。バレー部の顧問のジジイが結構厳しいらしいから、大丈夫なのかと心配になる。
間崎京子の家は、市内の北の端にあった。志保の母方の祖母の家がこの辺りにあるらしく、土地勘があったので私は地図も見ずに、彼女についていくだけでよかった。
それどころか、志保は間崎京子の家を知っているという。
「間崎さんの家は有名なお屋敷なの」
明治維新のあと、子爵の称号を賜わった間崎家の先祖は、そのあと生糸の生産業に投資をして成功し、財を成したのだという。京子の曽祖父の代で、市内の中心地から引越しをして、郊外に西洋風の屋敷を建てたのだそうだ。
「私のおばあちゃんも、若いころにお屋敷で女中をしてことがあるらしいの」
志保が今日のことを祖母に話すと、失礼があってはいけないと、まるで自分のことのように大慌てで、誕生日の贈り物を見繕ってくれたそうだ。あやうく、お屋敷まで見送りについてくるところだった、と言って志保は笑った。
そんな栄華を誇った間崎家だが、第二次大戦のあとは斜陽の時代を迎えた。
手を出していた不動産業が失敗をして、借金を返済するためにいくつか持っていた会社をすべて手放し、零落の一途をたどったのだ。さらに京子の祖父が死んだのを皮切りに、身内に若死にや事故死などの不幸が立て続いた。周辺の住民たちは間崎家の呪いなどと言って、陰で噂をしていたそうだ。
そういえば、京子は以前、母親は自分が生まれたときに死んだと言っていたな。
ほかにもそんな不幸がたくさんあったのか。
「間崎さんは、お父さんが船医で、いつも海外にいるから、ほとんど1人で、あの大きなおうちにいるみたい」
その父が、傾いた間崎家を立て直すために腐心するどころか、怪奇趣味というのか、変なものを買い集めることにばかり執着し、船医の仕事をしながら、世界各地でそういうものを探し回っているとの噂だった。
周囲の噂では、そのあやしげなものたちの呪いで間崎家はこうなってしまったのであって、かつての子爵家ももはや風前の灯、というのだ
「ほら、あれ」
志保が指さす場所はやや高台になっていて、その先に大きな建物の姿が見えてきた。
なるほど、大きい屋敷だ。
「私もあんまり近づいたことないけど、やっぱり変な感じがする」
噂では、間崎家の周辺は磁場が歪んでいて、へたに近づいて取り込まれてしまうと、帰れなくなる、というのだ。
酷い言われようだ、と思ったが、屋敷に近づくにつれてその気持ちが少しずつわかり始めた。確かに異様な感じがする。説明しづらいが、リズムを変えずに歩き続けているのに、見えている屋敷が、なかなか近づいてこない気がするのだ。
まるで近づけさせまいとしているような……。
それでも歩き続けると、私たちは玄関らしきところにたどり着いた。
あらためて見ると、私たち庶民が住む普通の一軒屋の4倍か、5倍か、いやそれ以上ありそうな大きさの洋館だった。2階建てのようだったが、見慣れた瓦屋根ではなく、尖塔のようなものがところどころに突き出ているのが見えて、3階建てくらいありそうな高さに思えた。たぶん、秘密の屋根裏部屋なんかもあるに違いない。
周囲をがっしりした石壁が覆い、その向こうに広い庭と洋館がある、という構造だった。
少し緊張しながら、石壁にはまったアーチ上の鉄製の門の前に立って、どうやって開けるのか観察していると、インターホンらしいものを見つけた。
ボタンを押してしばらくすると、『いらっしゃい』という声が聞こえた。
石壁の向こうで扉の開く音がして、やがて門のところまで足音がやってきた。そして、ガチャリ、という鍵の回る音がする。
「ようこそ。山中さん。来てくれてありがとう」
門を開けた京子は、黒い服を着ていた。ドレスと言ってもいいような、フォーマルな服だった。彼女のすらりとした長身によく似にあっていた。
ジーンズ姿のいつもの私服で来てしまった自分の体を思わず見下ろして、なんだか少し焦った気持ちになった。
「高野さんも。どうぞお入りになって」
促され、私たちは敷地内に足を踏み入れる。庭は広かったが、日本庭園のように築山や川などを模した緻密な趣向は見当たらなかった。ただ、洋館を囲むように植えられている背の高い木々の群が、小さな森を作っているような気がした。
その森のなかへ、古い洋館が長い時間をかけてゆるやかに飲み込まれている……そんな気が。
チャリ、という音に、ふと目をそちらへやると、京子の胸元には大きな鍵束が首から下げられていた。まるでネックレスのように。
玄関へ向かって歩きながら、京子は「これ? 家の鍵よ」と言って触り、チャリンチャリンという音を立てた。
いくつあるのだろう。大小織り交ぜて、10個以上はありそうだ。
昔よく、鍵っ子という言葉を聞いたが、ここまで露骨で大袈裟なものを見ると、逆になんだかファッションとして似合って見えるので、不思議だ。
「私のクラスメートはもう来てるわ。さあどうぞ」
両開きの玄関を開けて、私たちは洋館の中に招き入れられた。
もう日が暮れるころで、玄関ホールには明かりが灯っていたが、いやに薄暗い気がして私は目を擦った。
床は茶色の絨毯が敷き詰められていて、靴のまま上がっていいと言われたが、少し気が引けてしまった。
城のように豪華なシャンデリアが天井にあるのが見えたが、明かりは灯っていなかった。かわりに壁の両脇の上部に取り付けられたささやかな明かりが足元を照らしていた。
栄華のあとか。
私は絨毯の上を歩きながら、周囲の空間がボロボロと朽ちて崩れていくような錯覚を覚えていた。
古い映画で見るような、二階へと伸びる大きな階段の側を通り過ぎ、奥まったところにあった客室へ案内された。
部屋のなかでは京子のクラスメートが2人、所在なさげにソファに腰掛けていたが、私たちが現われたとたんに立ち上がり、頭を下げた。
私や志保に下げたのではない。この家の主に下げたのだ。緊張していることは痛いほど見て取れた。取り巻きの連中のなかでもよりすぐられた2人なのだろうが、誕生日会に呼ばれたことが、彼女たちにとって本当に名誉なことだったのかは、知るよしもなかった。
京子は、「パパが海外にいて、今日は私1人しかいないから、十分なおもてなしができないかも知れないけれど、どうかゆっくりしていって」と言った。
普段は通いの家政婦がいるそうだが、今日は休みを取ってもらっているらしい。
「お料理は得意なの。今日は私が、腕によりをかけたものをご馳走するわ」
友だちを呼んだこんなときにこそ、家政婦に手伝ってもらえばいいのに、と一瞬思った。しかし、こいつは、自分の日常に触れられたくないのかも知れない、と思いなおした。
父親と遠く離れ、この大きな古い屋敷に家政婦とたった2人で暮している自分を、どこか恥じているような、そんな気がしたのだ。
「もう少し待っていてね。あと少しでできるから」
そう言って京子は部屋から出て行った。その仕草がいちいち優雅で、しゃくに障った。
「どうも」
などと、どこか気まずそうに会釈を交わしている、京子の友だちと志保たちから目をそらし、私はソファに足を組んで腰掛けて、ケッ、と口のなかで毒づいた。
料理が得意ねえ。
どうも信用ならなかった。
アンダと出会ったあの事件の夜、京子は私に言ったのだ。
『似顔絵を描きましょうか。私、絵は得意なのよ』
なにが絵は得意だ。結局描いてもらう前に事件がとんでもない結末を迎えてしまったので、うやむやになっていたが、あとで美術の時間に京子が描いた絵を見て、私はひっくり返りそうになった。
ギャグで言っていたのか。
そう思ったが、どうやら本人は上手に描けていると思っているらしかった。だから信用ならないのだ。
「あいつ、絵が下手なの知ってる?」
いじわるなことを言ってやりたくなって、友だち2人にそういいかけたときだ。
部屋の入り口にふいに京子が顔を覗かせた。驚いて立ち上がりそうになった。
「本を見て作ってるから、大丈夫よ」
そう言って、入り口にあった部屋の明かりを点けてから、また去っていった。もともと明かりは点いていたが、もう一段階明るいのがあったらしい。
最初はあえてそれを点けずに出て行ったような気がしてならない。自分が去ったあと、みんながどんな話をしているのか、確認するために。
友だち2人は、心なしか青ざめているようだった。
私がなにを言おうとしていたか、見透かされていた。まいったな。あいつは、やっぱり油断ならない。
よけいにしゃくに障り、私は不機嫌になった。
本を見て作っているだと!
その本がネクロノミコンだとか、ゾハルの書だとかいう名前でなければいいけど!
 
それから小一時間経って、ようやく京子が呼びにきたときには、私は腹が減ってかなりイライラしていた。
もはや誕生日を祝おうという本来の目的を忘れ、飯食わせろ、という原初的な欲求しか頭になかった
客間を出て、やたら広い食堂に通された。ドラマとかで見るような馬鹿でかいテーブルがあって、その片方の隅に固まって料理が並べられていた。
お誕生日おめでとう、と言ってそれぞれ持参したプレゼントを渡す。志保のは、高そうな箱に入った万年筆だった。
かつてのこの家の格式を知っているお祖母ちゃんが、奮発して買ってくれたのだろうか。
私はというと、近所の雑貨屋で買った、可愛い猫の模様の便箋と、それとお揃いの柄のノートだった。明らかに私のが1番安い。 
しかし、京子はなぜか私のプレゼントを受け取ったときに、1番嬉しそうにしていた。喜んでもらえて悪い気はしない。
そうして、いよいよ夕食会となったが、私の不安は杞憂だったようだ。すべて洋風だったが、どれもおいしかった。まるで高級レストランのコース料理のようだ。
本当にこいつが作ったのか?
鴨料理をほおばりながら疑いの目で見ていると、澄ました顔で微笑み返してくる。
服装といい、立ち居振る舞いといい、そして容姿といい……その絵に描いたような深窓の令嬢っぷりに、なんだか照れたような気持ちになってしまい、私はわざと乱暴に肉を噛み千切った。
私が3口食べる間に、志保と友だち2人は2口食べ、京子は1口しか食べななかった。
3分の1くらい私が食べた気がするが、とにかく出された料理をすべて片付けた。テーブルの上の空になった食器を眺めながら、私はもうこの家に用はない、という気になっていた。
「ケーキがあるけど、もう少し休んでからにしましょう」
なのに、そんなことを言うのだ。このお嬢様は!
そうして5人で別の部屋に移動した。
食堂のすぐ隣の部屋だったが、そこには暖炉があり、少し冷えるわね、と言うと京子はそれに火をつけた。
確かに12月を間近に控えて、寒気がやってきていた。部屋のなかに暖炉があると、その暖かさと仄かな明かりとで、なんだか穏やかな気持ちになるので不思議だった。
その部屋には、私が見ても名前もわからない洋画家の画集がずらりと並んでいて、興味があるらしい志保が最初は恐る恐る背表紙を眺めていたが、「どうぞご覧になって」という京子の一言で、目をキラキラさせた。
そして次々と手に取っては熱心に頁を開いていた。
京子の友だちは落ち着かない様子だったが、やがてテーブルの上にあった玩具に手を伸ばした。そして京子になにか習いながらいじっている。
暖炉のソファに陣取った私の遠目には、飛び出す絵本のように見えたが、どうやら違うらしい。厚い紙でできた玩具であるのは間違いないようだったが……。
「それ、なに」
私が訊ねると、京子は言った。
「『悪魔の3つの部屋』、というおもちゃよ」
テーブルに近づいて行くと、「ほら、こうして遊ぶの」と京子はそれを私のほうへ向けた。
厚紙の上に洋風の家が描かれていて、その下のほうに3つの扉がある。扉の部分は開くと外へ折れるようになっていて、やっぱり飛び出す絵本のような構造になっている。
その開け放たれた扉の向こうには京子の体が見えたが、そのうちの1つの扉から、毛むくじゃらなケモノのようなものが顔を覗かせていた。
やはり厚紙でできたそれは、牙と角が生えていて、悪そうな顔をしていた。これが悪魔ということらしい。
その悪魔を、扉の裏側の横のあたりにセットすると、正面から扉を開けたときに、その動きに連動して横から顔をひょこっと出す、という仕掛けになっているようだった。
玩具と呼ぶにも、あまりに他愛ないものだ。京子は子どものころにこれで遊んでいたのだろうか。
そう思っていると、京子はすべての扉を閉め、厚紙の家の後ろでごそごそとしたあと、「さあ、悪魔が隠れたわ。どの部屋かしら」と言った。
おいおい。そんな子どもじみた遊びにつきあわせる気か。
呆れていると、「さあ、みんな裏を見ちゃだめよ。前に回ってちょうだい」とほかの3人まで巻き込み始めた。
その言葉に従って、4人とも厚紙の家の前に並んだ。
京子は満足そうに頷くと、口を開いた。
「悪魔のいる部屋の扉を開けてしまうと、食べられてしまうわ。悪魔のいない部屋を上手に選んで開けてね」
3つの扉のうち、セーフが2つ。アウトが1つ。純粋に3分の2でクリアできる、というしょうもない遊びだ。
私は真んなかの扉をぞんざいに指さした。金でも懸かっているなら京子の顔の表情を読むとか、もっと真剣にもなるが、あまりにもどうでもいい余興だった。
私が指さした扉を見下ろし、京子はしかしすぐにそれを開けなかった。そして玩具を抱えたまま、こんなことを言った。
「この家の主である私には、悪魔がどの部屋に隠れているか、わかるわ。だから、こんなヒントをあげる」
そうして、私が選んだ真んなかの扉ではなく、私たちから見て右側の扉に手を伸ばして、開けた。
その向こうには京子の黒い服と、首から下げた鍵の束が胸元に見えるだけで、悪魔の顔は覗いていなかった。
「この部屋は空よ。悪魔が隠れている部屋はあとの2つのどれか…… もう一度だけ選ばせてあげるわ。最初に選んだ真んなかの扉か。それとも左の扉に変えるのか。どちらでもいいわ。さあ、どうするの」
京子は子どもに諭すようにそう言った。
単純なゲームのはずが、少し様相が変わった。
んん? ちょっと待てよ。
騙されたらシャクなので、冷静に考える。
これで1つの扉が開けられ、残る扉は2つ。3択が2択に変わったので、確率は2分の1になったのだろうか?
真んなかの扉と、左の扉。どちらも同じ2分の1なら、確率は同じだ。
本当にそうか?
自慢ではないが、数学の類は苦手なのだ。
最初に選んだ真んなかの扉は、選んだ時点では悪魔が隠れている確率は3分の1だったはずだ。今、京子は私が選ばなかった扉を1つ開けたが、そのことでどういう変化が起きたのか。
本当に2分の1になったのか?
少し考え込む。
京子は当然悪魔の位置を知っているわけだよな。
私が悪魔の扉を選んでいたとしても、選んでいなかったとしても、必ず私が選ばなかった扉のうち、1つが開かれる。そして悪魔の位置を知っている京子は、絶対に悪魔のいる扉を開かない。
ということは、扉を1つ開けた、という行為の結果に、最初の私の選択の意味を変える情報は、なにも含まれていないのではないか。
だとしたら、やっぱり真んなかの扉は最初から確率は変わっていない。3択のままじゃないのか。
で、それに対して左の扉は…… あれ? ううむ。これも3択のまま? いや、違うよな。3分の2の、さらに2分の1なのか?
あれこれ考えていると、頭がパンクしそうになった。こんな子どもじみたゲームで、いったいなにをやっているんだ私は。
京子の友だち2人は、完全に傍観に入っている。それに対して、私の隣でじっと考えている様子だった志保が、ふいに顔を上げた。
「左の部屋には、66%の確率で悪魔がいます」
だから、真んなかの扉のままでいい。
志保が続けてそう言いかけた瞬間、私はその口を塞いで、もう片方の手で左の扉を開けた。
志保と友だち2人はあっ、と言った。
左の扉の向こうには悪魔はいなかった。向こう側の景色が覗いているだけだった。
「左を選んでよかったわね。悪魔は真んなかの部屋に隠れていたみたい」
「どうして?」
志保が私に向かってそう訊いてきたが、言わずもがなだ。
私たちにとって悪魔は確率で存在していたが、裏側で見ている京子にとってはそうじゃない。
確率を追って自滅させるために、不均等な選択ゲームをさせたのだ。こいつの性格はよくわかっている。
私はその裏をかいただけだ。
「今度はこんなゲームもあるわ」
そう言って、京子は『悪魔の3つの部屋』を片付け、別のボードゲームのようなものを出してきた。
小さなチェスの駒のようなものを、星の形をしたボードに交互に刺して、陣地を奪い合うという、ずいぶんとレトロな感じの玩具だった。
「やっててくれ。ちょっとトイレ借りる」
京子にそう断って席を立つと、トイレの位置を身振り手振りで教えてくれた。1階と2階に2ヶ所ずつあるらしい。
全部教えてくれなくていいよ。ハシゴさせる気か。
暖炉のある部屋から出て、暗く薄ら寒い廊下に立つと気持ちがスゥッと冷えるのを感じた。
ここへ来るまで、あれだけ怯えていた志保がいつの間にか寛いでいる。本当に普通のお誕生日会に呼ばれたかのようだ。
あいつは、間崎京子だぞ。
あの、なにを企んでいるのかわからない、恐ろしい女がこの家に住んでいるんだ。普通の家であるはずはない。
かつての名家が没落して、今はほとんど帰ってこない父と娘の2人だけだというのに、この無駄に大きな屋敷を売り払いもせず、ずっと住み続けているのはなぜだ?
京子の父親が蒐集している、という怪奇趣味的なものたちは、いったいどこに隠してあるのか。
暖炉の部屋を離れ、廊下を進む。絨毯がどこまでも敷かれていて、足音がほとんど鳴らない。明かりは、壁際にぽつりぽつりとあるランプのような形のささやかなライトだけだ。
教わった場所にトイレはあったが、用を足したあと、遠回りして帰ることにする。
静かだ。広すぎて、食堂のそばの暖炉の部屋の音は聞こえてこない。
洋館は大きく3つの棟に分かれていて、さっきまで私たちがいた、玄関からまっすぐ伸びる中央館と、途中で左右に分かれる廊下を進んだ先に、それぞれ別館があるらしい。
私は、玄関から見て右側にある別館のほうへ、恐る恐る進んでみた。
明かりが点いていなかったので、廊下でスイッチを探り当てて点けたが、やはり暗い。天井に豪華な明かりの姿が見えているが、どこかに別のスイッチがあるのだろうか。それとも、もはや完全に使われていないのか。
掃除はしているのだろう。黴臭くはないが、それでもどこか陰気で空気が澱んでいるような気がする。来客もないに違いない。まったく使われることのない、化石のような空間なのだ。
廊下の壁際に大きな台が置かれ、その上に高級そうな陶器が据えられている。かつては花が飾られ、見るものを愉しませたのだろう。いまはひっそりと、空の陶器が口を開けているだけだ。
中央館にあった大きな階段ほどではないが、幅の広い階段が姿を現した。その下から上の階を窺ったが、真っ暗で先は見えなかった。
階段は上らずに、先へ進む。
廊下の右側の壁は庭に面していて、閉じられた窓のカーテンの隙間から、外にうっそうと繁る木々の影が覗いている。
左手側に部屋が見えてきた。
豪華な装飾の、重そうな扉がある。ゲスト用の部屋だろうか。横を見ると、その先にも同じような部屋と扉があった。
目の前にある扉の、横向きのバーになっている取っ手に手をかけ、押し下げてみる。
開いた。
なにげなく取っ手に触ったが、開くとは思わなかった。
戸惑いながら、なかを窺ってみる。
「だれか、いますか」
なにか声をかけないといけない気がしたが、我ながら間抜けな言葉が出てしまった。
しかし人の気配などまったくしない。この別館自体が、まるで遺跡のように人の痕跡が途絶えた空間なのだ。
キィ。
軋んだ音を立てて、扉が開いた。
部屋のなかは暗い。ちょうど廊下の向かいの壁に明かりがあったので、その光が私の背中越しに部屋のなかへと射し込んでいる。
自分の影が、部屋の床に伸びている。足を踏み入れると、廊下の絨毯とは違う弾力を感じた。同じように柔らかいが、なんだか妙な足ざわりの床だった。
部屋の真んなかに、椅子が見えた。テーブルは見当たらない。古そうなアンティークチェアだけが、ぽつんとこちらを向いて置かれていた。
近づこうとした瞬間だ。
私はふいに立ちくらみを覚えた。ぐらりと、足元が揺らいだ気がした。
毒?
とっさにそう思った。さっきの料理に、なにか仕込まれたのか。
間崎京子の冷たい顔が浮かび、すぐに消える。そんなまさか。
立っていられなくなって、私は目の前の椅子にすがりつくように腰を下ろした。
その、木製で革張りの椅子は、硬過ぎず、柔らか過ぎず、座り心地はかなり良かった。私が毎日家でご飯を食べている椅子などとは、材質も役割もまったく違うのだ。
暗闇のなかでじっと座っていると、段々落ち着いてきた。少し気分が悪くなっただけなのだろう。
毒……。
自分で自分の考えたことが可笑しくなって、苦笑してしまった。
だれもいない別館の、だれもいない部屋で、真っ暗ななか、1人でこうしていることがなんだか心地よくて、名残惜しい気がした。
どのくらい経ったのか。さすがにもう戻らないといけない、と思って椅子から腰を上げ、光のある廊下へと足を踏み出す。
また変な感触の床を歩き、部屋の外へ出た。扉を閉めるとき、光が失われていく部屋のなかで、取り残される椅子が妙に寂しそうに見えた気がした。

(下へ続く)

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