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『師事(再生)』

Pixiv
僕が海沿いのド田舎から某中規模都市の大学に入学したころ。
とりあえず入ったサークルにとんでもない人がいた。
元々霊感は強い方で、子どものころから心霊体験は結構している方なのだが、大学受験期にストレスからか、やたら金縛りにあっていて色々と怖い目にあったばかりだった。そのせいでもあるのだが、オカルトへの興味が急激に高まっていた時期で、サークルの人々が引いているにも関わらず嬉々としてそんな話をしていると、ある先輩が「キミィ。いいよ」と乗って来てくれた。
その先輩は院生で仏教美術を専攻している人だった。
普段はあまりサークルにも顔を出さないらしいのだが、新歓時期ということもあって呼び出されていたようだ。
上回生や、おどおどした入部希望者、見るからに冷やかし目的のチャラチャラした見学者など、人でごったがえしている部室内で、その先輩は一人冷ややかに一歩引いた位置から周囲を眺めていた。
その探るような視線がどこか近寄りがたい雰囲気を醸し出していたので、最初から気になっていた。
しかし思いのほか、その先輩が人垣を掻き分けるように身を乗り出して来たので驚いてしまった。それから問われるままに自分が体験した様々な怪奇譚を語っていると、その一つ一つに楽しげな笑みを浮かべ、「そいつは災難だな」などと寸評をくれるのだった。
すっかり意気投合してしまい、見学にいったその日の夜にドライブに連れて行ってもらった。
他の新入生たちは上回生に引っ張られて、学裏と呼ばれる学生向きの定食屋街に連れ立って行ったのだが、僕とその先輩だけは別行動となった。
正直、ドライブに誘われた時は迷った。他の部員たちと離れ、サークルの中でも浮いている存在であるということがひしひしと伝わってくる先輩と二人で行動するというのは、今後このサークルにおける自分の立ち位置が決定付けられるような気がしたからだ。
そしてその予感は外れていなかった。
「何か食うか」
駐車場に学内の駐車場にとめてあった先輩の軽四に乗り込むと、そう訊かれた。
もう日も落ちてあたりは暗くなっていた。
「なんでも食います」
そう答えると、「じゃあファミレスだな」と妙に嬉しそうにシートベルトを締めるのだった。
それから、ほかにどんな怖い体験をしたのか根掘り葉掘りと訊かれながら、随分と遠くのファミレスにやって来た。
そこは郊外のガストで、車から降りて看板を見上げながら「なんでここなんですか?」という表情を浮かべていると、先輩はぼそりと言った。
「ここな、出るよ。俺のお気に入り」
ファミレス自体人生で始めてという田舎者の僕は、それでさえ緊張しているというのに、出るって、出…… 出るんですか。
あらかじめ予約してあったとでもいうような足取りで、店員の案内も待たずに先輩は一つのテーブル席に向かった。僕も追いかけて、向かいに腰掛ける。
メニューを見るのもそこそこに、適当に注文した料理がやって来ると、箸を握った瞬間、先輩がこう言った。
「俺が合図したら俯けよ。足だけなら見えるはず」
こちらを向きもせず、スパゲッティをズルズルと啜りながら、その咀嚼の合間にだ。
そんなことを言われて飯が美味いはずがない。
これはなんの冗談なんだ。
もやもやした気分のまま、皿の上のライスをもさもさ食ってると、急に耳鳴りがした。 どこか目に見えない場所で歯車だらけの大きな機械が急に駆動を始めたような、そんな感覚。
出る。
自分の経験則に照らし合わせて、それが分かった。その空間の気圧が変わるように、あるいは磁場が変わるように、何か普通ではないものが現れる瞬間だった。
冷や汗が出始めて、箸を握る手が止ると先輩が言った。
「おい。俯けよ」
慌ててテーブルに目を落した。
その姿勢のまま動けず、しばらくじっとしてると、視線の右端、テーブルのすぐ脇を白い足がすーっと通り過ぎた。
まるで現実感がなかった。その足は床を踏んでいなかった。
いきなり肩を叩かれて我に返った。
「見たか?」
先輩が紙ナプキンで口元を拭きながらそう尋ねてくる。
僕が頷くと、
「今のが店員の足が一人分多いっていう このガストの怪談の出所。俺は足以外も全部見えるんだけどな。まあ、顔は見ない方が幸せだ」
そう言って平然と水の入ったコップに口をつける。
なんなんだ、この人は。
「早く食べろ。俺、嫌われてるから」
僕もかなり幽霊は見る方だと自認していたが、こいつはとんでもない人だと、この時はっきり分かった。
その後、僕が食べ終わるまでの間、白い足は僕らのテーブルの周りを三回往復した。


ガストを出たのちは、怪談話をしながら通ると必ず霧が出る山道だとか、先輩お気に入りの山寺巡りなどに連れまわされて、もはや自分がどこにいるのかさっぱり分からなくなっていた。
市内からは多分出ていたのだろう。
池だか沼だかが横に広がるあぜ道のようなところで、先輩は路肩に車を止めた。辺りには明かりらしい明かりもなく、車のエンジンを切り、ライトを消すと周囲は静まり返っていた。
「あの」
しっ……
小さく指を口に当て、先輩はあぜ道の先に目を凝らす。何か見えるのだろうかと僕も
フロントガラスに顔を近づけるが、真っ暗な視界の先に消防の屯所かなにかの赤いランプだけが微かに瞬いているだけだった。
じっと息を潜めていると、夜の中に自分の身体が沈んでいくような錯覚をおぼえ、どうしようもなく不安な気持ちになった。
春とは言え、深夜には気温がかなり下がり、肌寒さに鳥肌が立っていた。
どれほどの時間が過ぎたのか、ふいに車のすぐ横を誰かが通り過ぎた。
人が。
いや、それははたして人だったのか。
暗闇の中を黒い影が行く。人相風体も定かではない。僕は怯えて車の窓越しにじっとそれを見ている。
こんな時間に、出歩いていることだけが異様なのではなかった。こんな時間にあぜ道に止まっている車が気持ち悪くないはずはない。なのにそれを避けようともせず、すぐ脇を通り過ぎながら、なおその車内を伺うでもなく、ただ目に映っていないかのようにその誰かはゆっくりとした足取りで真っ直ぐ去って行った。
遠ざかり、暗さに慣れた夜目にもその影が全く識別できなくなってから深く息を吐いて、僕は隣の先輩に声をかけた。
「あれは、なんですか」
先輩はハンドルに両手を覆い被せるように体重を預けたまま、少し眠そうに答える。
「さあ、なあ」
その口ぶりに違和感を覚え、僕は重ねて訊いた。
こんなところに車を止めてわざわざ待っていたのだから、あれがなんなのか知らないはずはない。そんなことを。
しかし先輩は予想だにしなかったことを言うのだった。
「霊道なんだよ、ここ」
え。
寒気がした。ずっと感じていた異様な感覚を言葉にされてしまったような。
「霊道って言葉はあんまり好きじゃないんだがな」
そう呟いたのに、しばらくたってからようやく僕は反応する。
「どうしてですか」
「道って言うと、往来って言葉があるように、行き来するものみたいじゃないか」
「それがどうしたんですか」
「見たことがないんだ」
そう言って先輩は、フロントガラス越しに黒く潰れたようなあぜ道の先をじっと見つめる。
「戻って来たやつを」
僕は息を止める。外にはなにかを告げる山鳥の声が遠く微かに響いている。
「ここだけじゃなくて、霊道って言われているどの場所でも。だから、道って気がしないんだ」
「だったら……」
なんですか。
そんな言葉が口の中で掠れた。
先輩は顔を動かさず、視線だけを僕に向けた。そして「穴だな」と言った。
穴。
落ちて行く、戻れない穴。
その言葉を聞いた瞬間、僕は僕が今いる場所から少しだけ自分が浮いているような錯覚に陥った。いきなり不安定な空間に放り込まれたような。
そこでは僕らが日常を生きる世界と、寸分たがわず、でもどこかがほんの少し違う、そんな異界と重なりあっている。僕らが道と認識している同じものが、穴のように口を開け、静かに人ではないなにかを飲み込んでいく。
そんな想像に身体を震わせ、助手席のシートに深く座り直す。
「最後のやつだけか」
ふいに先輩がそう訊いてきた。
最後の?
それを聞いた瞬間、僕は自分が思い違いをしていたことを知った。全身の鳥肌がさらに増した。
先輩はこう訊いたのだ。
見えたのは、最後に通ったやつだけか?
嘘だろ。
そう思って先輩を見据える。
しかし彼はふ、と鼻で笑うように言うのだった。
「まあ、いい」
先輩には見えていたのだろうか。
車を止めてからじっと息を潜めていた間、静まり返った暗闇の中、窓の外を通る無数の黒い影たちが。
僕が寒く、寂しいあぜ道としてしか感じていなかったその空間を、彼は……


朝日が山の端から射し込み始めたころに、僕はその奇妙なドライブからようやく解放された。
「じゃあな」
眠そうに、手を挙げきらないで左右に振る。ウインドウが閉まり、オイル交換をサボっているような白い煙を吐き出して、ボロ軽四が朝焼けの中へ走り去って行った。
それ以来僕はその先輩を師匠と仰ぐことになったのだった。
奇妙なもの、恐ろしいもの、気持ちの悪いもの、悲しいもの。
そのどれも、僕らの日常のほんの少し隣にあった。
「じゃあ、行こうか」
彼が僕を振り返り、そう言うとき、日常のほんの少し隣へと通じる扉が開く。人生で一度しかない僕の大学生活のすべてが、そんなもので彩られていった。
それは、彼の失踪まで続くのだ。

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