サイトTOPシリーズまとめTOP師匠シリーズまとめTOP

『馬霊刀』 1/4

Pixiv

0 喫茶店
『服部調査事務所』と書かれたドアに背を向けて、狭い階段を下りていく。
 目の前で師匠の頭が揺れている。少し猫背で、ポケットに手を入れ、愉快なことなどなにもない、という足取り。
 1階まで降りて、雑居ビルの外に出ると、すぐそばに『ボストン』という名前の喫茶店の入り口がある。
「なんか食ってくか」
 師匠がぼそりと言った。
「はい」
 ドアを開けると、カラン、という控え目な音がした。喫茶店のなかは落ち着いた照明で、コンビニやファミレスに慣れてしまった目には薄暗く感じられた。
「いらっしゃい」
 鼻の下にヒゲを蓄えたマスターが、カウンターから声をかける。
「あれ。久しぶりじゃない。あのー、アレを着てきた時以来だね」
 マスターは蓑笠の紐を喉元で括るようなジェスチャーをして、笑っている。
 師匠は頭をかいて、「うす」と言いながらカウンターの隅に座った。俺もマスターに「こんにちは」と頭を下げて、師匠の隣に座る。
 師匠から聞かされた話に何度か出てきた喫茶店だ。俺が初めて訪れた時は、ここは京介さんのバイト先だった。その京介さんへの嫌がらせのために、わざわざ雨のなかを蓑笠を着てやってくる、というテロを敢行した師匠だったが、入店して早々にびしょぬれの蓑を掛けさせろと喚くはずが、妙に暗いテンションで黙って入り口に突っ立っていた。なんだか托鉢僧のような風体だった。さらには京介さんに怒られて、そのまま口答えすることもなく、すごすごと帰ろうとする有り様だった。そのころはまだ俺も、この喫茶店が師匠にとってどういう場所だったのか知らなかったので、首をかしげるだけだった。それももう、1年以上前のことだ。
「なんにする?」
 店内にはほかの客はいなかった。マスターのほかに店員もいない。
「メープルトースト、まだある?」
 師匠が訊ねると、マスターは残念そうに、「ごめんね。もうやってないんだ。いつも食べてくれてたのにね」と頭を下げた。
「そうですか」
 師匠はサンドイッチとコーヒーを頼んだ。僕も同じものを注文する。
 サンドイッチに包丁を入れながら、マスターがポツリと言った。
「あの時は驚いたけど、なんだかワクワクするような気持ちになったよ」
 ドリッパーにペーパーをセットして、コーヒーミルで挽いたばかりの豆を入れる。そして、お湯を軽く注ぎ、膨らんだ豆の粉の表面に割れ目が出てくるのを見計らって、スッとお湯を回しながら落としていく。
「蓑を着て、入り口に立ったキミを見たら、なんだか思い出しちゃってね」
 お待たせ、とサンドイッチとコーヒーが席に並べられた。マスターはカウンターの下を布巾でひと回ししながら、チラリと壁のほうを見る。
 そちらに目をやると、ささやかな写真立てがいくつか飾られていた。
 そのうちの1つには、京介さんが写っている。眼鏡をかけた知的な風貌の男性と、マスター、そしてエプロンをしたウェイトレス姿の京介さんの3人が、カウンターの前で並んでいる写真だ。男性は、ついさっき会ってきたばかりの服部調査事務所の所長だった。京介さんとマスターは営業スマイルだったが、服部さんはニコリともしていない。けれど、カウンターに置いた肘が、くつろいでいる様子を表していて、なんだか意外な気がした。
「あのころは、随分メチャクチャなことばかりあって、店を壊されそうになったり、胃薬が手放せないくらいだったけどさ。喉元過ぎれば、ってやつかな。懐かしくてね…… 蓑なんかを着て、みょうちきりんな格好の人が入ってきた瞬間に、あ、あの子が帰ってきたって…… 思っちゃった」
 ははは、とマスターは照れたように笑った。
 あの子、とは師匠のことではないのだろう。帰ってくるはずのない人だから、照れ隠しに笑っているのだ。
 師匠はなにも言わず、じっと壁を見つめている。その視線の先には、1葉の写真がある。
 京介さんの写真と同じように、カウンターの前に数人が並んでいる。右端には眼鏡の男性がいる。服部さんだ。表情は、判で押したように変らないが、今より少し若く見える。左端にはウェイトレス姿の女性がいる。白い髪留めをしていて、笑顔が爽やかな人だった。たぶんひかりさん、という当時のアルバイト店員だろう。その隣には、師匠が並んでいる。若い。目が今ほど死んでない。真っ直ぐにこちらを見ている。服部さんの隣には、ボサッとした頭の、くたびれたスーツ姿の男性がいる。含み笑いのような表情を浮かべて、首元に手をやっている。曲がったネクタイを直そうとしているような格好だった。服部調査事務所の前身である、小川調査事務所の所長だ。今では、タカヤ総合リサーチという大手興信所の所長を務めるかたわら、服部調査事務所のオーナーとして、忙しい日々を送っているそうだ。写真のなかでは、どこか捻くれたような、子どもじみた雰囲気をしていた。
 写真のなかのマスターは、カウンターの内側に今と同じような格好で写っている。今より少し髪の毛が多いようだ。ショボショボした目つきで、心労のタネをいっぱい抱えているような様子だった。
「もう何年前になるのかな。いい写真でしょう」
 マスターがこちらの視線の先を見て、話しかける。
 コーヒーの柔らかな香りが立ち上ってくるなかで、師匠と俺は、じっと写真を見つめている。
 いい写真、か。
 ほかの写真立てにも、その時々の常連やアルバイト店員がマスターと一緒に写っている。けれど、その一枚だけはなんだか、ほかと違う。構図は同じだ。奇抜な格好をしているわけでもない。いったいどこが、違うのか。
 悩むまでもなかった。ひと目でわかるのだ。これが、いい写真であることが。
 写真の真んなかに、親指を立てて微笑んでいる人がいる。初めて見る人なのに、ずっと知っていたような気がする。その人がいるだけで、なにもかもが輝いて見える。その輝きのなかに、師匠の青春のすべてがある。
 俺は、見ているだけで胸の奥が重くなり、つらくなった。俯いて、コーヒーカップに手を伸ばす。
 師匠は目を逸らさずに、見つめている。
 色あせることなく輝く、その美しい呪いを。

1 雑貨店
 師匠から聞いた話だ。


 大学2回生の夏だった。
 その日僕はバイト先である小川調査事務所に朝から詰めていた。資料整理を頼まれたのと、昼から依頼人が来るからだった。
 バイトの先輩であり、オカルト道の師匠でもある加奈子さんをご指名の依頼だった。ということはつまり、この興信所業界で『オバケ』という隠語で呼ばれる、おかしな依頼ということだ。
 本来は「つかみどころがない」=「達成不可能」という意味のハズレ案件を指す言葉だそうだ。加奈子さんがその『オバケ』を解決してしまう、という特異な力を発揮するにつれて次々とそんな依頼が、この零細興信所に舞い込んでくるようになっていた。
 所長である小川さんがかつて勤めていた大手興信所、『タカヤ総合リサーチ』の名物所長、高谷さんなどはかなり本気で加奈子さんを引き抜こうとしている節がある。
 小川所長は、『オバケ』案件の依頼が多くなっている現状を愚痴りながらも、それが貴重な収入源になっている現実を鑑みて断固拒否している。
 そして、「気楽にやれるところのほうがいいや」とは加奈子さん本人の談である。
 その加奈子師匠は今、事務所の椅子にふんぞり返って、向かいの席にちょっかいを出している。もう1人のバイト、服部さんにだ。
「なあ知ってるか。忍者ハットリくんのあの顔って、お面なんだぜ。ニンジャは素顔を人に晒さないんだ」
 ダンボール箱いっぱいの新聞の束から、小川所長がマーカーを入れている記事を切り抜いて、内容ごとに分類する作業をしている僕の背中に、そんな豆知識が飛んでくる。何度も聞かされたやつだ。
 ゲコ。
 ゲコ。
 お尻にホースのついたおもちゃのカエルが、服部さんに跳びかかろうと跳躍を繰り返している。
 もちろんホースの元は師匠の手のなかにある。このカエルも忍者ハットリくんの嫌いなものだったはずだ。子どもじみた嫌がらせだ。
 当の服部さんは、師匠の嫌がらせを完全に無視して、淡々とワープロを打っている。
 今日みたいな所長が留守のときには、互いに無視を決め込むことも多いが、師匠の機嫌のいいときには、このように服部さんイジリを敢行することもあった。実に迷惑な機嫌だ。
「だいたいだ。お前のコードネームはなんだ?」
「……坂本ですが?」
 今度はなんだろう。コードネームというか、バイト用の偽名だ。興信所の性質上、脱法行為ギリギリのことにかかわることがあるので、バイトの僕らには偽名のついた名刺を渡してくれているのだ。
「おまえが『坂本』、私が『中岡』で、前にいた夏雄は『武市』だ。この3人は土佐勤皇党だ」
 坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太。確かに幕末の土佐藩出身の著名な志士だ。
「しかるにこいつは『服部』だ。服部だぞ! 服部半蔵って、初代は有名な伊賀の忍者の頭領だけど、時代下って幕末には十二代目服部半蔵正義ってのがいて、桑名藩の家老なんだ。桑名藩は会津藩と並ぶバリバリの佐幕派だ。勤皇の志士を弾圧した側だぞ。どうなってんだ!」
 バンッ、と机を叩く師匠。
その言いがかりに、キーボードを叩く手を止めもせず、服部さんはただひとこと、
「本名ですから」
と言った。
「な、これだからな。職場の和ってものを考えてないんだ」
 同意を求められても、返事に窮する。正直うっとうしい。今職場で仕事をしていないのは師匠だけだ。
「わたしは、この世界で生きていこうと思っています」
 服部さんが発したその言葉には、おまえら学生の腰掛アルバイトとは違う、という拒絶のニュアンスが棘のように含まれていた。
「ちぇっ」
 師匠は舌打ちをして、椅子の背にもたれかかり、足をガン、と机に乗せた。ホットパンツから伸びる太ももが眩しくて、僕はドキドキしてしまう。
「だったら、服部調査事務所でも立ち上げてくれってんだ」
 師匠の憎まれ口に、服部さんが眼鏡を中指で抑えながら、さらに言い返した。
「そのときには、あなたが欲しい」
 ゲコ。
 ゲコ。
 カエルが飛び跳ねている。
 師匠はその言葉に虚をつかれて唖然としている。この間は、屈辱だろうと思った僕は、「モテモテですね」とフォローしてあげた。
「め、メシ喰いに行くぞ」
 師匠は立ち上がり、僕を小突いた。
「ちょ、ちょっと待ってください。いま終わりますから」
 せかされて、ちょうど整理し終わったファイルを棚に押し込み、僕は師匠の後に続いた。
 階段を下りながら、僕は師匠の背中を見つめ、こういう意外な場面でのストレートなのも有効なのか、と心のメモにしっかりと記録していた。
「ちわぁ」
 同じ雑居ビルの1階に入っている喫茶店『ボストン』のドアを開ける。
 昼時なのに先客は1人だけ。あいかわらず閑散としている。
「いらっしゃい」
 ヒゲのマスターが、カウンターで広げていた新聞を畳む。
「メープルトーストとサラダとオムライス。あとブレンド2つ」
 僕の分まで注文しながら、いつもの2人掛けの席につくと、師匠は隣の座席に転がっていた女性雑誌を手に取った。
「あの野郎」
 師匠は雑誌に目をやりながら、そんな舌打ちをしている。よほどさっきのやりとりが気に食わないらしい。
「小川さん来る?」
 しばらくしてウェイトレスのひかりさんが、注文の品をテーブルに置いた。
「いま出かけてますけど、あとで来るかも」
 僕はメープルトーストに手を伸ばしながら答える。
 服部さんだけは誘ってもめったにボストンにはやって来ないが、小川調査事務所の面々はこの喫茶店の貴重な常連だった。
 マスターがテレビをつけた。昼のニュースの時間だった。
 相変わらず美味いメープルトーストを食べながら、テレビを見ていると、食べ終わるころにはローカルニュースになった。
 市の東部で、中世の遺構が見つかったという。
 それまで腕組みをして横からテレビを見ていたマスターが、興味をなくしたように厨房のほうに引っ込んだ。
 画面では、日焼けした50歳くらいの作業着の男性が、七三分けの髪の毛を、ちゃんと七三になっているかと確認するかのように、しきりになでつけながら、興奮気味にしゃべっていた。
『これは、平安時代の軍馬の埋葬地だと思われます』
 背後に、掘り出されつつある大量の骨が映っている。
『馬装も一部残っています。ここは当時、受領(ずりょう)の郎党の営地があったとされている場所ですが、これは死亡した軍馬を一箇所にまとめて葬った、いわゆる馬塚です。一緒に埋葬されていた、このような鉄剣も見つかっています』
 土の中から掘り出されたばかりの変色した刀剣が、ブルーシートの上のトレーに乗せられている。
『鎮魂のための魔よけですね。人墓ではよく見られるものですが、馬塚ではほとんど見られないものです。貴重な資料と言えると思います』
 ニュースは発掘の様子を遠景でとらえる画面になった。そして最後に、ここが市の土地開発公社の所有地であり、市営運動場の移転先として計画されていたが、この発見によって計画の変更を余儀なくされるだろう、ということを伝えていた。
 CMに入ったとたん、師匠が空になったオムライスの皿をどけながら、ひかりさんに言った。
「別のチャンネルも回してくれ」
「ん?」
 ひかりさんは言われたとおり、リモコンでチャンネルを変える。どの局も、ちょうど昼のニュースが終わるところだった。
 師匠が左目の下を掻いている。
「あんなもの、公共の電波で流しやがって」
 昼のドラマが始まった画面を見ながら、ぶつぶつと呟く。
「あんなものって、なんですか」
 僕の問いかけに師匠は答えず、不愉快そうにコーヒーを口にした。こういう表情のときの師匠は、まず答えてくれない。もったいぶるのは得てして、オカルト絡みのことばかりだ。
(つくづく名探偵だねえ)
 僕は皮肉を口のなかで転がした。そんな師匠が嫌いではなかった。
 昼食を食べ終わり、僕らは3階の小川調査事務所に戻った。昼の1時に依頼人と待ち合わせをしているのだ。ほどなくして小川所長も外出から帰ってきた。
 所長は服部さんにいくつか指示をしてから、事務所の壁の時計に目をやった。あと10分ほどで1時だった。
「時間通りに来るかな」
 右手で腹を押さえていることからして、どうやらボストンに行きたいらしい。
「食べてきてもいいですよ。とりあえず、私が話聞いときますから」
 師匠がそう言いかけたときだった。
 突然、身体に寒気が走った。なにか来る。
 嫌な予感を濃縮したようなものが血液に混ざって、全身を廻り始めたような感じ。
 ガタンッ。師匠がふんぞり返っていた椅子から、一瞬で立ち上がった。
 服部さんと小川所長は怪訝な顔で、入り口のドアと、反対方向の窓、そして師匠と僕の顔を交互に見ているだけだった。
 僕と師匠だけ! 反応しているのは、僕らだけだ。
 そういうなにかが、来る。それも、これは……。
 身体が震える。ただごとじゃなかった。恐ろしい悪意……、いや、害意の固まりのようなものが、迫ってきていた。
「うわっ」
 真っ黒な煙が、ドアや壁の隙間から溢れ出てくるような感覚に思わずあとずさった。呼吸が早くなる。
「どうした」
 小川所長は、僕らの異変に気づいて師匠の肩に手を触れた。
 ゴツン、ゴツン。
 階下から、足音が上がってきている。このオンボロビルは、階段の足音がよく響くのだ。
 来る。
「下がって」
 師匠が鋭く言って、入り口のドアに向かって身構えた。小川所長はその指示には従わない、とばかりに師匠の横に立った。服部さんは無表情でドアのほうに顔を向けながら、ワープロのキーに手を置いたままだ。
 僕だけがさらに1歩、いや、2歩下がった。床がキュッと鳴る。足音が、3階の小川調査事務所の前で止まった。
 ノックの音。
「どうぞ」
 小川所長がドアに近づかず、その場で声をかける。ノブが回り、ドアが開く。師匠が重心を落として、不測の事態に備えるのがわかった。
「や、どうも。少し早かったですかな」
 ドアから現われたのは、小太りの中年男性だった。ボーダーのシャツに、青いサマージャケット。下はスラックス。髪の毛は短髪で、白髪が目立っていた。容姿はともかく、服装はちょっと小洒落た感じの男だ。
 違う。一目見た瞬間わかった。あの黒い、もやのような気配は、するすると逃げるように遠ざかっていく。
 師匠は男性に駆け寄ると、「だれかと一緒に来ましたか」と問いかけた。
「え、いや。1人ですけど」
 男性はめんくらいながら人差し指を1本立てて見せた。
「失礼」
 師匠は男性の横をすり抜け、ドアから飛び出していった。僕は一瞬迷ったが、その後を追った。
「なんですか、いったい」
 男性のそんな言葉を背中で聞き流して、階段を駆け下りる。早い。師匠はもう見えない。
 躓きながら全力で階段を下りきって、ビルの外に出ると右の方に少し離れた場所を師匠が走っている。
「おまえはそっち!」
 振り向きながら師匠は、逆方向を指さして怒鳴る。小川調査事務所の入っている雑居ビルは、繁華街から少し離れた筋にあるので、昼間から人通りが少ない。
 とにかく左のほうに走ってみる。通り過ぎる人の顔を覗きこんでみるが、なんの気配も感じなかった。むしろ不審そうな顔で見られただけだ。
 結局何本目かの十字路で折れ、キョロキョロしながらぐるりと1周して元の雑居ビルに戻ってきた。
「逃げられたか」
 師匠はもうビルの前に立っていた。ボストンに寄ってみて、マスターに変なやつを見なかったか訊いてみたが、首を振るだけだった。
「に、逃げたっていうか……」
 僕は言葉に詰まった。
 まだ足が竦んでいる。正直、探しているときも、いないでくれと思っていた。見逃してもらったのは、こっちじゃないのかという気がしてくる。
「なんですか、あれ」
「わからん」
 師匠はもう息が整っている。僕はまだ喘いでいた。
「人間だと思うが、なにかおかしい。こないだの子猫ちゃんとはわけがちがうな」
 子猫ちゃん? 風のなかに髪の毛が混ざっていた事件で出会った、あの女子高生たちだろうか。たしか師匠はそう呼んでいた。
「あれが、人間なんですか」
 僕には、とんでもない悪霊が迫ってきているような感覚だった。
 師匠はなにか考えている顔をしていたが、「依頼人に会おう」と言ってビルに入った。
 事務所に戻ると、依頼人の男性は応接用のソファに座って所長と話していた。
「やあ、戻ってきましたな」
「すみませんでした。突然」
 そろって男性に頭を下げたところで、すぐに師匠は顔を上げる。
「ところで、だれかにつけられる覚えはありませんか」
「つけられる?」
 依頼人はきょとんとしていた。



 依頼人は緒方正人と名乗った。海外、主に台湾や、東南アジアからの輸入雑貨を扱う店を経営しているという。アーケード街の北のほうに店舗を構えているらしい。小川調査事務所のメンバーはだれも行ったことがなかった。
 最近、緒方氏の店では、おかしなことが立て続いて起こっているという。
 売り物のガラス細工が、さわりもしないのにリンリンと鳴り出したり、だれもない店の隅からすすり泣くような声が聞こえたり。天井の照明からの光でできた影が、奇怪な形に変化したり、という現象が。
 このままでは、オバケが出る、という変な噂が立ってしまって、客足にも影響が出始めかねない、というのだ。
「たぶん、変なものを一緒に持ち込んじゃったんだと思うんですよ」
 向こうでの買い付けは自ら行くそうで、エスニックで、少し怪しげな雑貨が緒方氏のお気に入りだった。台湾の先住民族のお面や、フィリピンで買った波紋のような模様のタペストリーなど、どこかピンとくるオーラを感じて入手したもののなかに、なにか良くないものが混ざっていたのではないか、と言うのだ。
「そういうことなら、小川調査事務所に専門家がいると、仁科さんに伺いましてな」
 緒方氏は暑っつい、と悪気なく呟いて、懐から取り出した扇子で自分の顔を扇ぎはじめた。応接用のソファには、緒方氏と所長、師匠と僕の4人が座っている。
 所長が目配せすると、服部さんがエアコンの設定温度を下げた。「や、すみません」と緒方氏は手を振った。
 仁科、というのは以前、師匠が解決したオバケ絡みの事件の依頼人の老婦人だった。それ以来、師匠のファンになってしまったようで、頼みもしないのに、方々で熱烈にプッシュしてくれているのだ。
 なんでも代々、商店を営む資産家で、世話好きが高じて地元の商工会や婦人会など、あらゆるところで役員をしているらしい。この仁科さんの紹介が、オバケ事案の依頼の、主要なルートになりつつあった。
「仕入れたものを全部捨てるのはさすがに大損するので、なんとかその原因になっている雑貨を、特定してくれないものですかな」
 依頼自体は、よくある、というと変だが、加奈子さんに持ち込まれる事案としては、想定の範囲内のことだった。
 師匠は正面に座る緒方氏の目をじっと見つめた。僕も同じように横からその目を覗き込む。なにか、霊的な気配をかすかに感じる気がするが、それが緒方の店にある妖しい輸入雑貨のせいなのか、それともさっきの何者かが撒き散らした悪意の残滓なのか、僕には判断がつかなかった。
「もう一度伺いますが、尾行される心当たりは?」
「ありません。ありません」
 緒方氏は2度も言って、右手を大袈裟に振って見せた。人の良さそうな人物だった。
 師匠は少し考えて、所長に目で告げてから、「お引き受けします」と言った。
 ただし、と条件を出した。
「ちょっといま立て込んでいまして、そうですね」と手帳をパラパラとめくる。「1週間後ではどうでしょうか」
「1週間後ですか……」
 緒方の顔が曇った。
「変な噂が立ったら困るので、早めにお願いしたいんですが」
「その店、晩は何時までやってるんですか」
「開店は正午からで、晩は9時に閉めます」
 結構遅くまでやってるんだな。経営が苦しいのかも知れない。さっきまでニコニコとしていたが、今は渋面で、うつむき気味になっている。
「では、3日後、閉店後の午後9時では」
「3日後。それなら」
 緒方氏は顔を上げた。
「あなたがいらっしゃるんですか」
 緒方氏はなにか言いたげな口調だった。こちらはそういう態度には慣れっこだった。どだい、霊能力者なんていう触れ込みで、師匠のような若くて健康的な容姿の女性が出てくると、疑いの目を向けられるのは仕方のないことだった。
「そうですよ。仁科の婆ぁ……、仁科さんからはなんと聞いていらっしゃったんですか」
「あ、いえ、そうではなくて。すみません。よろしくお願いします」
 緒方氏はまた手を振って、とりつくろうに笑ってみせた。
 依頼人が去ってから、小川所長は師匠に「どうして3日後なんだ」と訊いた。
 たしかに、立て込んでいる人間が、暇をもてあまして朝からカエルのおもちゃで同僚をからかったりしないだろう。
「調べたいことがあるんですよ。それで所長、服部を少し貸してくれませんか」
「ん。いいけど、どうするんだ」
「緒方さんの尾行をしてもらいたいんです。家まで。それで、だれか他に尾行をしている人間がいないか、確認を」
 それを聞いて所長は、スッと服部さんに指で合図を出した。服部さんはすぐに立ち上がって、なにも言わずに事務所から出て行った。
「私もちょっと、別に調べることがあります。また連絡します」
 師匠は愛用のリュックサックを背負うと、黒い帽子を被った。
「どこ行くんですか」
 僕もついて行こうとすると、師匠は、「おまえは資料整理がまだあるだろ」と言って、そっけなく突っぱねられた。
 師匠は、「じゃ」と言って事務所のドアに向かいかけて、「あ、そうだ」と振り返る。
「せっかくバイトが土佐勤皇党を結成してんだから、服部にもコードネームつけてくださいよ。『岡田』なんてどうですか」
 じゃ。
 師匠は眉を上げて笑顔を浮かべながら、事務所から出ていった。
 


 服部さんは1時間くらいで帰ってきた。家まで後をつけたが、ほかの尾行はいなかったそうだ。
 結局その日は、師匠は戻ってこないまま、僕の資料整理のバイトは終わった。小川さんは所長なのに、バイトの身の師匠の秘密主義的行動を許している。逆に、所長の指示にきっちり従う服部さんなどは、師匠のそういうところを嫌っている。僕はその師匠の助手として、この事務所に転がり込んでいる立場上、服部さんからも距離を置かれている。
 しかし、これだけは訊いておかなければならない。
「あの。服部調査事務所の話、どういう意味なんですか」
「どういう意味とは、どういう意味ですか」
 僕の帰り際のひと言に、デスクの服部さんは静かに向き直った。
「いやその。……あなたが欲しいっていう、あの……」
 ふっ。
 服部さんは息を吐くと、「嫌味ですよ」と言った。
 なんだ嫌味か。ホッとすると同時に、服部さんもそんな冗談を言うんだと思うと、おかしくなった。
「彼女は、ある種の人間にとっては梯子のような存在です。はたで見ていて、そう思います。足を掛けて登れば、日常と少し違う景色を見せてくれる。……そうでしょう?」
 面白い比喩だった。けれどそれを語る目は、冷たかった。いつかの松浦というヤクザのような。
しかし決定的に違うのは、松浦が師匠を手元に引き寄せようとする人間なのに対し、服部さんはそんな師匠を嫌うのに十分なリアリストだということだった。
「けれど梯子は、けっしてだれかの居場所になることはできない」
 それだけ言って、話は終わりだ、とばかりに服部さんは書類に目を戻した。
 僕は腹にカッと燃えるものを感じた。師匠を嫌う服部さんが、僕以上に師匠の本質を捉えていたように思えたのだ。
「服部さん。詩人になれますよ」
 それが精一杯の強がりだった。
 翌日と2日後は大学の授業に出た。
 一度師匠の家に電話したが、いなかった。忙しいのか。いったいなにをしているのだろう。
 そうして約束の3日後がやってきた。
 午後6時に小川調査事務所に入ると、師匠がまた服部さんをからかっていた。
「うまいなあ。ハンバーガーうまいなあ。あげないけど」
 向かいに座り、ホットパンツから伸びた両足をだらしなくデスクの上に乗せて、ハンバーガーの包み紙を握り締めている。
 あったな。ハットリくんにそんな設定。実にきめ細やかな嫌がらせだ。
 服部さんはその嫌がらせを完全に無視して、帰り支度をはじめた。
「僕も帰るけど、今夜はよろしく頼むよ。大丈夫だな」
 小川所長もネクタイを緩めながら、スーツの上着を肩にかけた。
 所長と服部さんと見送ってから、僕と師匠は事務所で2人きりになった。約束の時間は、緒方氏の営む雑貨店が閉店する午後9時。まだ結構時間がある。それまで打ち合わせをするのかと思ったが、師匠は余裕の様子で、ソファに寝転がって漫画本を読んでいる。
「大丈夫なんですか」
「大丈夫、大丈夫」
 生返事だ。
「呪いの雑貨を特定するんでしょう。いきなり行って、できるんですか」
 どういう雑貨があるか、あらかじめ聞いて調べたりしないのだろうか。
 結局師匠は時間まで漫画を読んだり、居眠りをしたりして過ごした。僕もしかたなく、事務所の掃除などをして時間を潰した。
 そうして小川調査事務所を出て、午後9時ちょうどに緒方氏の雑貨屋の前に立った。『ジャガナート』という看板が出ている店だった。
 夜のアーケード街は人影がなく、うら寂しい風景だった。電車通りから南にのびるアーケードだったが、『ジャガナート』のある辺りは、だいぶ奥のほうで、もともと人通りが少ない場所だった。そして午後9時ともなると、ほとんど通行人の姿は見えなくなっている。
 店の紹介をしている手書きのカラフルな立て看板には、『本日は閉店しました』というボードがかけられている。
『CLOSED』
 というカードがこちらを向いている自動ドアを通ると、御香の匂いが鼻を抜けた。夏向けの、どこか涼しげな香りだった。
「お待ちしておりました」
 黒っぽい貫頭衣を着た緒方氏が、にこやかにやってきた。店内はアジア圏特有の雰囲気の雑貨でいっぱいだった。足をぶらぶらさせた人形や、灯篭のような形のランプシェード。象やアジサイの描かれた皿などが、ところ狭しと陳列されている。
「あ、お1人じゃ、なかったんですね」
 師匠と並んだ僕を見て、緒方氏は微妙な表情を浮かべた。どこか不満げな様子だ。
「こいつは助手ですから、別に料金は倍にはなりませんよ」
 師匠は笑って僕の肩を叩いた。
「で、この店のどこで、どんなことが起こるのか、詳しくお聞かせ願えますか」
「あ、はい」
 緒方氏は、師匠と僕に、店内の紹介をしていった。
「で、こちらの牛の形をした陶器の鈴が、だれも触っていないのに、ひとりでに鳴りだしたり……」
「ほう、ほう」
 丁寧に説明する緒方氏とはうらはらに、師匠はなぜか形ばかりの相槌を繰り返すばかりで、まったく身が入っていなかった。
 僕のほうは精神を集中して、立ち並ぶ雑貨から、なにかの気配を感じ取ろうとしていたが、どうも思わしくなかった。
 ほとんどなにも感じないのだ。キョロキョロと周囲を見回すが、先日感じたようなほんの微かな違和感があるばかりだ。
 僕らの態度に、緒方氏は苛立ちを抑えたような表情をしはじめた。この調査に店の経営がかかっているのだ。さもありなん、だ。
「こっちは事務所ですか」
「事務所というか、私の控え室のような、あっ」
 師匠は、店の奥にあったドアを開けて、勝手になかに入った。
「へぇ。結構広いですね。2人くらい寝られそうだ」
 ドアの向こうには、仕事机や小さな冷蔵庫があった。奥には床のうえに畳が敷いてある。
「こっちは、特になにもないですよ」
 緒方氏は怒ったように言った。師匠はそれを無視して、部屋の物色を続ける。
「お、これはいいカメラですね。こっちは、ほうほう。立派なレザーベルトじゃないですか。店のほうに置かないんですか。……おや?」
 師匠は急に屈んで、床からなにかを拾い上げるような動きをした。
「アルバムが落ちてましたよ。緒方さんのですか」
 こちらを向いて、花柄の写真アルバムらしいものを師匠は捲ろうとする。
「か、返せ!」
 その瞬間、緒方氏は目を剥いて叫んだ。僕はビクッ、としてしまった。その豹変したような怒鳴り声に驚いたのだ。
 緒方氏は師匠の手からアルバムをもぎ取ろうとする。師匠はその手をひらりとかいくぐると、部屋から店内へ出た。緒方氏はさっきまでの人の良さそうな姿が別人のように、唸り声を上げながら師匠を追いかける。
「なんだよ。怖いなあ。からっぽのアルバムじゃないですか。そんなに目くじら立てなくても」
 師匠は店のなかで振り返ると、笑いながらアルバムを開いてこちらを向けた。写真が収まるはずのポケットはすべて空だった。
 緒方氏はギクリと足を止めた。
「な、なぜ」
「まあ、少し落ち着いてください。あなたの大事なアルバムは、家にあるはずでしょう。こんなところに置きっぱなしにしてるはずはない」
 うそだろ。
 僕も驚いていた。師匠はこの、呪いの雑貨を探す、という依頼を、まったく別のものに作り変えていた。僕も、そして緒方氏も知らないあいだに。なにが起こっているのか、さっぱりわからなかったが、それだけははっきりしていた。
「友人にな。非合法の写真屋がいるんだよ。普通の店じゃあ、現像してくれないような写真を扱う、特殊な写真屋だ。おまえ、以前そんな写真を持ち込もうとしたな。やつは覚えてたぞ。ついてなかったな。結果的に客にならなかったから、守秘義務じゃ守ってくれなかったぜ」
『写真屋』こと、天野のことか。小川調査事務所ご用達の、変態的なアングラ男だ。
 師匠の口調が変わっている。緒方を依頼客と見なさなくなったのだ。
「こないだのウチの事務所でも、私の足ばっかりエロい目で見やがって。脚線美なのは認めるけど」
 師匠は扇情的な動きで、素足の太ももを自分で撫でた。緒方の顔に異様な量の汗が噴き出し始めていた。
「なにがどうなってるんですか」
 態度のおかしい緒方を警戒しながら、僕は師匠に問いかける。
「この変態はな、閉店間際に店にいた女性の1人客を狙って、婦女暴行を働くのを趣味にしてる、人間のクズだ。さっきの部屋に引っ張り込んで、写真を撮ったりしてな。警察にチクったら、写真ばら撒くぞって脅してるんだろ」
 僕は驚いて、師匠と緒方を交互に見た。
「他の店はみんなとっくに閉まってるこんな時間まで、流行らない雑貨店を開けてること自体、おかしいだろ。アーケード街に人がいなくなって、ちょっとやそっと騒いでもバレないようにわざわざ9時閉店にしてんだよな。そうだろ」
 師匠が緒方を睨みつける。緒方の喉から、ぐぐぐ、という鈍い音が漏れている。僕はとっさに師匠を守れるように、すぐ側に寄って緒方に正対した。
「おーっと、もう観念したほうがいいぞ。写真はもうこっちが押さえてある。日中、留守の間に、ちょちょいっ、とな」
 服部さんに尾行させたのは、家をつきとめるためか!
 そして証拠を押さえる時間を確保するために、依頼日から3日間待たせたのだ。
「なんでわかったんですか」
「よく目を見てみろよ。こいつの。ドス黒い色情にまみれた霊がついてる」
 えっ。僕も驚いたが、緒方もまた驚愕して自分の顔を両手で覆い、輪郭をなぞり始めた。事務所で会ったときから感じていた微かな違和感は、そのせいだったのか。たしかに、今はその人の良い笑顔の裏に隠れていた醜い魂が、むき出しになっているようだった。
「霊っつっても、おまえの店で起こるっていう怪現象とは関係ないぞ。店に入ってみて確信した。ここには、呪いの雑貨なんてない。本当にそんなことを体験したというなら、それはおまえの罪悪感が生んだ幻だ」
 そうだ。緒方はたしかに、『変な噂が立ったら困るので』と言った。逆に言うと、客はまだその怪現象を体験していない、ということだ。緒方自身しかその現象に遭っていないのだ。すべては緒方の心の闇が生んだものだった、ということか。
「依頼のとき、私が来るのか、って確認してたな。もし今日1人で来てたら、どうするつもりだったんだ」
 そうか。カメラと、拘束用のベルトは、あわよくば今日使うつもりだったのか。
 怒りが腹から湧いてきた。僕の師匠に、この野郎。
「自首しろ」
 師匠は冷たく言い放った。「その業を落としてこい」
「うう」
 緒方の目の色が変ってきた。比喩ではなく、なにか混ざり始めたような感じ。ドロドロとした怨念のようなものが、外へ漏れ出ていく。
 僕が身構えようとした瞬間だった。異様な気配が、爆発するように店内の空気を一変させた。
「なにっ?」
 師匠と僕は驚いて、とっさに戦闘姿勢をとった。しかしすぐに、それが緒方からではないことに気づく。
「く……くるな。やめろ! うわぁああああ」
 緒方が両手を前に突き出して、狂ったように振り回した。
 後ろか。
 僕は振り返る。カーテンを閉めた入り口のドア。その向こうは、暗い外。そこに、なにか、いる。
「ギャアアアッ」
 悲鳴とともに、ガシャーン、と激しい音がして思わず振り向くと、緒方が店の奥の壁際にあったガラスケースに倒れ込んでいた。
 ガラスが割れる音と、なかにあった陶器の商品が割れる音が混ざって、耳を打った。
「や、や、や」
 緒方はガラスの破片まみれになって、頭から血を流し、ガタガタ震えている。それでも、上半身を起して、右手で頬を押さえながら、入り口のドアを左手で指差し、「や、や、や」と繰り返している。
「なんだ。なにが起きた」
 師匠は緒方に叫んだが、すぐに入り口のほうを向くと、走り出した。僕も後を追う。
 厚手のカーテンを開き、ドアを開けようとしたが、自動ドアはスイッチが切れたのか、動かなかった。2人がかりで隙間に指を入れてこじあけ、外に飛び出した。
「くそっ」
 左右を見たが、暗い照明の灯るアーケード街は、どこまでも無人の空間だった。人影はどこにもない。
 気がつくと、あの一瞬に店内で膨れ上がった真っ黒な気配は消え去っていた。
 店内に戻ると、僕はまだ倒れたままの緒方に問いかけた。
「なにがあったんです」
 緒方は小刻みに震えながら、恐怖に怯えた顔で、頬を押さえていた右の手のひらをどけた。そこには、抉られたような痛々しい傷があった。頬骨のところだったのか、白いものが見えていた。
 うわ。
 手のひらには真っ赤な血が滴っている。緒方はそれを見つめて、ぶるぶると声を絞り出した。
「や、やで……」
 師匠はハッとして、緒方の目を覗き込んだ。そしてゆっくりと確かめるように言った。
「矢…… 弓矢で、撃たれたんだな」
「そんなバカな。どこから、そんな」
 僕はうろたえながら、状況を確認する。緒方の正面は入り口のドアだ。厚手のカーテンも、自動ドアも閉まっていた。外から弓矢で撃たれるはずがない。散らばったガラスや陶器の破片のなかを探したが、緒方の頬を抉ったという矢は、どこにも見つからなかった。
「矢なんてないですよ」
「ない。矢を射掛けられて怪我をしたのに、矢がない…… 見つからない……」
 師匠は目を見開いて呟いている。
 緒方の頬の傷は本当に弓矢でついたのか? 転んで、ガラスで切っただけなんじゃないのか。
 僕はしごくまっとうな言葉を吐こうとしたが、師匠のただ事ではない様子に、口をつぐんだ。緒方は震え続けている。さっきまでのむき出しの暴力的な性のエネルギーは霧散していた。憑き物がとれたようだった。
「弓……」
 師匠は焦点のあっていない目元を、右の手のひらで覆った。
「ゆみ、つかい」
 師匠はもう一度外のほうへ顔を向け、ひとこと、そんな言葉をこぼした。



「弓使い?」
 小川所長が呆れたように言った。
「そうだ」
 師匠は真剣な表情で所長を睨む。
 緒方の雑貨屋での事件から一夜明けて、僕と師匠は調査事務所で所長にことの顛末を報告していた。
 その事件で警察沙汰に巻き込まれたくなかったが、緒方の怪我を放っておくわけにもいかず、救急車を呼んだ。そして警察にはその場で師匠から電話した。
 当然緒方の罪状も説明することになるが、告発するための証拠となる写真の一部は師匠が持っていたものの、住居不法侵入の産物だった。師匠の立場がどうなるのか、不安でしょうがなかった。
 けれどやってきたのは西署の1課の当直の刑事だけでなく、なぜか応援で2課の刑事もいた。
 不破だ。不破は小川所長の刑事時代の元同期で、小川調査事務所、特に『オバケ』事案専門家の加奈子さんとは協力関係にある、素行不良刑事だ。
 2課で暴力犯を担当しているはずの2係主任の不破は、やってきた1課の強行犯担当の2人を差し置いて、その場で1課長の丸山警部の自宅に電話し、なにごとか話をつけた。
 それから師匠と僕は、西署に連れて行かれ、事情聴取を受けたが、状況説明をしただけで、日付が変るころには解放された。師匠の住居不法侵入及び写真窃盗のお咎めはなかった。
 最後の、緒方が見えない矢で襲撃されたという部分は、犯罪を追及されてうろたえ、ガラスケースに転倒した、ということにした。
 ただ、緒方が搬入された病院でも、雑貨店の外から弓矢で撃たれた、と言っているらしく、その部分だけ執拗に確認された。しかしそう言っているのは緒方だけで、状況から、その可能性はないに等しかった。僕自身も信じていない。師匠も淡々とそう説明していた。
 なのに、である。
 小川所長の前で、師匠は「弓使いが緒方を撃った」と言い切ったのだ。
「あー、ちょっといいかな。加奈ちゃん。自動ドアはスイッチを切られて、閉まっていた。カーテンも掛かっていて、外は見えない。なのに緒方は、店の外から弓で撃たれたっていうんだよね」
「そうだ」
「本人はそう言っています」と僕も加わる。
「で、カーテンにも自動ドアにも穴は開いてないし、矢も見つかってないと」
 小川所長はタバコを胸ポケットから取り出して、マッチで火をつけた。
「妄想だろう。店で起きてるっていう怪奇現象もそうだったんだろ。自分の悪癖がもたらした罪の意識に苛まれて、おかしくなってたんだな」
「所長。西署で事情を聞かれているとき、担当の刑事たちが『弓使い』という言葉を、お互いに交わしていました」
 それは、僕も聞いた。改めて彼らの会話を思い出すと、初めて使う言葉ではなく、日常で使っているようなイントネーションだったような気がする。
「去年の冬ごろから、弓矢を使った通り魔事件が続いていたでしょう。目立つ武器を使っていることと、被害者が犯人の姿を目撃しているにも拘らず、なかなか逮捕されなかった。最近あんまりニュースでも見なくなりましたけど、まだ捕まってないんですよ、あれ」
「ああ、あったな。そんな事件」
「県警では、その犯人を『弓使い』と呼んでるみたいですね。そして恐らく、今回の緒方の件と、共通点があるんですよ。『犯行に使われた、矢が見つからない』っていう」
「そんなこと、ニュースでやってなかったよ」
「隠してるんでしょう。マスコミ向き過ぎるから」
 なるほど。矢で射られたはずなのに、その矢が見つからない。そんな事件が連続して起こっている。マスコミの恰好のネタだ。
「これまでの報道を拾ってみました」
 師匠は、新聞の切抜きのコピーを数枚、所長のデスクの上に広げた。僕が所長の指示で、記事の分類ごとに整理したやつだ。役に立ってよかった。
「最初の事件は去年の冬。市内で古紙回収業を営む男、34歳が、深夜1時に友人宅へ行こうと家を出たところで、何者かに弓矢で撃たれ、上腕を貫通する怪我を負った」
 師匠は次々と、記事の概略を読み上げていく。
「2番目の事件はその2週間後。27歳のOLが深夜12時ごろ、オールナイトの映画を観るために外出し、駅前に向かっていたところ、表から1本入った路地で襲撃されています。彼女は脇腹を撃たれ、全治2ヶ月の重症。そして3番目の事件では被害者が亡くなっている。深夜2時過ぎに市内南部のコンビニで、車を置いていた55歳の会社員の男が、道路を渡った先の自販機の前で胸を撃たれた。コンビニまでたどり着いたが、搬送先の病院で死亡。4番目の事件は30歳の無職の男性が、深夜12時半ごろ、駅近くの呑み屋に向かっていたところ、線路沿いのひとけのない通りで、暗がりから弓矢で撃たれた。とっさにかばった右腕と肩に重傷を負っている」
 師匠はさらに2件を読み上げ、これまでに報道された6つの事件の概要を説明し終えた。
「いずれも目撃者はなし。犯人の心当たりも、襲われる心当たりもない。そして警察情報では、犯行に使われた凶器が見つかっていない。被害者が『弓矢で撃たれた』とはっきり言っているにも拘らず、だ。そして最後の事件から、3ヵ月ほど経つけど未だに犯人は捕まっていない、と、こんなところですね」
「師匠、その犯人ですけど、女だって言ってなかったですか」
「そう。被害者の供述によると、犯人はフード付きのコートを着ていて、顔ははっきりしないものの、体格から女性ではないかと言われている。身長は165センチから170センチと、女性にしては大柄。私くらいの背格好だな」
 師匠は自分の頭のうえに手のひらを乗せた。
 新しいタバコに火をつけながら、所長が口を挟む。
「犯行に使われた弓はともかく、矢が見つかっていないというのが解せないな。犯人が持ち去ったとしたら、被害者の身体に突き刺さった矢を抜いたことになる。たしかそんな供述なかったんだろ」
「そう。弓矢を撃って、そのまま犯人はその場を離れている。そのあたりの被害者の供述が、報道された情報でははっきりしない。ただ、どうやら、『矢は消えた』という噂もある」
「消えた? それは被害者が言ってるんですか」
「いや、これはある警察筋から仕入れた情報なんだがな……」
 師匠はズボンの尻のポケットからメモを取り出した。
「1人目の被害者は、事件現場に近い民家に助けを求めた際、『腕の矢を抜いてくれ』と喚いていたそうだ。腕から血は流れていたものの、なにも刺さってはいなかった。にも拘らず、だ」
「警察筋って、不破か? 加奈子、おまえ昨日も不破に助けられてるだろ。借りを作りすぎだ」
「昨日は高谷さんからも、話を通してくれたらしいですけど」
 師匠はそう言って口を尖らせた。高谷さんとは、小川所長の義理の父でもある、タカヤ総合リサーチの名物所長だ。
 県警のOBで、在職中は将来の刑事部長を嘱望された、切れ者だったという噂。現在でも県警には太いパイプがあるらしい。パイプというより、『弱み』を握っている、というほうが正確なのかも知れないが。
「……」
 小川所長は後ろ頭を掻いている。どうやら、昨夜の依頼中に警察沙汰になったことを聞いて、高谷さんにご出陣願ったのは小川所長らしい。僕らにことさらそれを言わなかったのは、恩着せがましくないように、というより、困ったときのパパだのみ、という姿を知られたくなかったのだろう。
「とにかく、最初の事件では被害者はかなり錯乱していて、刺さった矢が途中で抜けた可能性もある。しかし、他の被害者も、おおむね似たような供述をしているようなんだな」
「つまり、矢が刺さってないのに、刺さってるって主張してるんですか」
 師匠は頷いた。
 一瞬、狂言、という言葉が浮かんだ。目的はわからないが、被害者たちは揃って、通り魔事件を装っているのではないか。そう考えたが、実際に矢傷のようなものを受けて重症を負っているのだし、死んだ人だっている。その考えには無理があった。思ったより、はるかにオカルティックな事件だった。
「被害者たちは、お互いに面識はなく、これといった共通点も見つかっていない。完全に通り魔的犯行だとしたら、目撃者の少ない深夜帯に行われていることと合わせて、犯人にたどり着くのはなかなか難しいだろうな。凶器の特殊性を加味しても」
「でも犯行に使われたのは弓道で使う、あの大きな弓だって話じゃないですか。そんな目立つものを持ち歩いていたら、いくら深夜でもどこかで見られてそうですけどね」
「被害者はそう供述している」
 師匠は意味深な口調でゆっくりとそう言った。
「弓も、持っていなかった可能性があると?」
 小川さんが師匠に問いかける。刺さっていない矢を、刺さっていると騒いだように、被害者の供述が信用できないのなら、そんな可能性だってあるということか。
「どうでしょうか」
 すましてそう言う師匠に、僕は我慢できず、「昨日の件は、結局なんだったんですか」と訊ねた。
「緒方は、見えない矢に撃たれたと言っている。この通り魔と同じだって、そう言いたいんでしょう。緒方は雑貨にくっついた悪霊のせいで、店で怪奇現象が起きている、という妄想にとりつかれていた。最後の弓矢で撃たれたっていう騒ぎも、妄想だった可能性が高い」
「本当にそう思うか」
 師匠の視線に射すくめられる。同時に、あのとき感じた異様な気配を思い出す。カーテンを閉めた店の外から、漏れ出るような殺意を感じたことを。それは、3日前に緒方が依頼のためにこの事務所へやってきたときに感じたものと同じだった。
「……いいえ。あれは、なんだったんでしょうか」
 師匠は僕のひとり言のような問いには答えず、デスクのうえの新聞記事の切り抜きファイルを指さした。
「さっき読み上げた、通り魔事件の概要のなかで、私がすべての事件で、わざと省略しなかった部分がある。なにかわかりますか」
 僕は少し考えたが、わからなかった。所長も両手の手のひらを上に向けた。
「第1の事件は、『深夜1時に友人宅へ行こうと家を出たところで』、第2の事件は、『深夜12時ごろ、オールナイトの映画を観るために外出したところで』、第3の事件は、『深夜2時過ぎに市内南部のコンビニに車を置いて、道路を渡った先の自販機の前で』、第4の事件は『深夜12時半ごろ、駅近くの飲み屋に向かっていたところ』……」
 そこまで師匠が繰り返したところで、ハッとした。それと同時に、えっ、と思った。奇妙な一致だったからだ。
「ええと。もしかして、外出した目的を省略しなかったってことですか」
「そうだ」
 師匠はニヤリとする。しかしそれは、別のことを意味していた。
「逆に言うと、全員、帰宅中じゃなかった」
 僕はそう呟いて、ぞわっとした。意味もわからず、背筋が。
「そう。いずれも事件は深夜に起こっている。だから通り魔なら、帰宅途中で起こる蓋然性が高い。なのに、1件も帰宅途中のものはなかった。コンビニに車を置いていた第3の事件も、被害者の実際の足取りでは、その30分前に家を出たばかりだったことがわかっている。つまり、全員が、外出した後に襲撃されている。おかしいと思わないか。そんな深夜に、外に出る用事がある人間ばかりが襲われているんだ」
「通り魔じゃ、ない?」
 犯人は、狙ったのか。待ち構えていて? だとすると、被害者を知っていたことになる。
「緒方も、以前から狙われていた」
 そうだ。そうだった。本人は気づいていなかったが、3日前も緒方は狙われていた。あの異様な気配は、今思い出しても寒気がする。
「でも緒方は結局、外出中に襲われたわけじゃなく、店のなかにいるときに襲われています」
「そうだ。店に、女性を呼び込んだところでな」
「女性を?」
 緒方はこれまで、閉店間際にやってきた女性客を狙って、性的暴行を加えていた。それも口止め用に写真を撮るという、卑劣な犯行を。そこに、若い女性である師匠が、1人でやってくる。店で起こる霊的な被害の調査のためだったが、あわよくば、という気持ちもあったのだろう。思惑外れて、助手の僕がくっついてきた上に、あの結末だったわけだが。
「犯人は、緒方の犯罪を知っていたって言うんですか」
「ああ。そう考えたほうがしっくりくる。最初は被害者のだれかじゃないか、と思ったんだけどな。復讐のために。でもこれが、見えない矢を使った一連の通り魔事件と、同一のものだとすると、別の絵が見えてくる。緒方の事件の状況を、ほかの事件に当てはめてみるんだ」
 僕は師匠の問いに、首を振った。小川所長は苦笑いのような表情を浮かべて、タバコをくわえながら僕らの様子を眺めているだけだ。
「緒方は、邪悪な目的を遂げようとしたところで、襲撃されている。他の被害者もまた、深夜に外出したところで襲撃されている。そして、その外出の目的は、全員が、自ら主張するだけで、いずれも裏づけがとれていない」
 えっ。
 その師匠の言葉に、驚いた。
「第1の被害者は、友人宅へ行こうと家を出たというけど、不破情報では、友人には事前に連絡してなかったそうだ。そして第2の被害者は、オールナイトの映画を観るために外出したというが、チケットはあらかじめ買っていなかったし、結果的に観ていない。第3の被害者は、同居の家族にもなにも言わずに家を出ている。そして死亡しているので、外出の目的はわからないままだ。第4の被害者は、呑み屋に向かっていたというが、これも結局行っていないので、本当にそうだったのかは、わからない。」
 たしかに。たしかに、被害者は全員、深夜に外出しており、その本当の目的は本人しか知りえない状況だ。だからと言って……。
「被害者が全員、なんらかの犯罪に関わっていたっていうんですか」
「犯罪をする前に、阻止されたんだよ」
 師匠はそう言い切った。
 そんなバカな。
「飛躍しすぎじゃないですか」
「んー」
 師匠は額を押さえて、自戒するように首を振った。
「そうだな。まだなにもわからない」
 ふーっ、と息を深くついて、師匠は広げたファイルを片付け始めた。じっと聞いていた小川所長が、そこでようやく口を開いた。
「加奈子。警察が動いているんだ。わかってるんだろうな」
「わかってますよ。連続通り魔事件が発覚してから、半年以上経つのに、まだ動きっぱなしだってこともね」
 所長は、やっぱりわかってない、という諦観をこめた手のひらを、自分の額にペチンと叩きつけた。
「うちは慈善事業じゃないんだ。依頼もないのに、警察が動いている連続殺傷事件をかき回して、なんの得があるんだ」
「ルパンが相手なら、天下御免で出動できるんでショ」
 師匠は急に、色っぽい声を出した。カリ城の不二子の真似か。たしかそのセリフの意図するところは……。
「オバケが絡むとなると、私は勝手にやらせてもらう。個人的にね」
 師匠は帽子を手に取って、キュッと被った。
「待て、わかったから、連絡は入れろ。昨日みたいなことになったら、手遅れになるぞ」
「うう〜ん。ス・テ・キ。さすが所長」
 師匠にしなだれかかられ、小川所長は食いしばった口の端を微妙にグニグニさせていた。僕はそれを見て、もやっとすると同時に、師匠の言葉の一部にひっかかるものを感じていた。
「オバケが絡んでるんですか」
「ああ。まだカンだけどな」
 師匠は、つつつ、と所長のシャツの上から胸を指でなぞった。所長は妙な顔をしている。ヤメロ、妙な顔をするな!
「さあ、なにが出るかな」
 師匠は遠くを見るような目をした。その瞳のなかには、青白い炎がたなびいている。瞳の先には、まだ見ぬ怪物の姿があるのか。
 弓使い。
 警察のあいだで、そう呼ばれている通り魔事件の犯人を、師匠は追うと言うのだ。
 その、見えない矢を。
 僕は、ゾクゾクした。


▲pagetopへ